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昔読んでいた「愛鳩の友」。その中で読んだ鳩の名前がEver Onward。 その名をブログの名前にした。 ブログの内容は『マラソン・炭鑛・炭坑昔ばなし・他』
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第27話

 

米騒動

 

 

大正七年七月十二日、福岡県田川郡添田町峰地炭坑に米騒動が勃発した。

激昂した群集は、まず配給所(炭坑直営購買部)を襲い、余勢をかって商店街を荒し、坑外にあった炭車を全部坑内に暴走させたのち、桟橋を切り倒し、巻揚機をダイナマイトで破壊してボタ山に集結した。

警察でも手い負えなくなって、一日おいて十四日小倉十四連隊から武装した一個小隊が派遣され実弾を射撃する結果まで発展して、翌十五日にようやくこの騒動も一応鎮圧することができた。

この軍隊の放った実弾によって下関重砲兵帰りの小江仙作(28)という青年が、左腋下より右側腹部へかけて貫通銃創で重傷を負うという悲劇まで生んだ。

この暴動に参加したもの三百、そのほとんどが青年層であったという。

 

 

この年は、松の内の飾りもとれないうちから、炭坑に限らず日本国中は、不景気のドン底に叩きこまれてしまった。

たった三年前の景気が、まだ誰もの頭にこびりついて、僅かな希望をたよりにつるはしを握ったがつるはしの一振り毎に不景気は、その刃先から崩れて落ちる炭魁のように容赦なく次々と足元から伸び上がってきた。

 

 

日々上がるのは暑気と米価ばかり。これを本当に暑くるしいというのだろうか。にもかかわらず、暑くるしい噂、と米騒動直後の新聞記事が見える。いつの時代でも黒い霧は発生したらしい。

年始めに28銭であった米が、五月から急に上昇しはじめ、七月には50銭からすぐ60銭となり、もうすぐ一円になろうとした。それに逆比例して、一函33銭であった切賃は、会社の経営が成り立たないという理由から、29銭に下げられ、あまつさえ2函取り以上を禁ぜられる始末に追いこまれてしまった。

1日どう働いてみても、50銭余りの収入しかない。融資の道もとざされた会社は、賃金の不払いを防ぐため、切符を各ヤマで発行した。

1銭、5銭、10銭、50銭、1円券と五種類あって、1銭券には十斤と書かれ1円券には千斤と書かれた。

この切符は、街の商店にも私鉄駅にも通用した。喘ぐような不景気に堪えられなくなって、積もりに積もった不安と憤まんが、富山の暴動を口火としてついに、田川郡の一角で、爆発してしまったのである。

 

 

発端は富山県下の漁村の婦人仲仕を中心とする行動から始まって、富山県を皮切りに京都、神戸、名古屋まで次々に騒動、焼き討ちは広がり役2ヶ月の間に全国一道三府三十二県に波及したという。

 

 

「峰地がとうとうやったげな。見に行ってみようか」

夕食の粥をすすっていると、となりの伝助がきて、千太郎を誘った。

「やめとけ、よそどころじゃねえ。こっちが腹がへってたまらんじゃねえか。それに今暴動のまん中に行ってみい。どんな災難が降りかかってこんでもねえ」

「そうじゃろか」

伝助はそのまま帰っていった。寝ようとしていると、四、五人どやどやと千太郎のところへ押しかけてきた。

「千さん、行って見ろうじゃねえか。これだけおりゃあ危ねえこともなかろう。何でも小倉から兵隊がうんと来とるちゅうぞ」

先頭の伝助が千太郎の傍へ来てせき立てていう。余り気乗りはしなかったが、半ば好奇心も手伝って、千太郎は麻裏をつっかけると、みんなの後ろから家を出た。

月のない夜はまっ暗だった。根床峠を越して大任村へ入り、大行事から彦山川の川伝いをぶらぶらと添田へ上がって行った。炭坑が近づくと、あちこちに焚火が見える。

「やっちょるやっちょる、勇ましいなあ」

先頭の伝助は喜びながら一人ではしゃいだ。一つの焚火がつい近くなって、炭坑の入口に来たとき一行はドヤソヤと七、八人の竹槍や棍棒を持った男達に行手をさえぎられた。

「おい、どこい行くとか」

棍棒を持った一人の男が前に進んできて聞いた。

「俺達か、わかっとろうもん、鼻のむいた方たい」

伝助が小馬鹿にしたような口ぶりで肩をそびやかせて言った。

「何よう、こん外道、鼻の向いた方たあなに気のきいたことをこきやがる。これから先は行くことならん」

「いらんお世話だい、天下の公道じゃねえか。通ろうと通るめえとこっちの勝手じゃい。そこどけ」

「ばかたれ、言うて聞かせてもわからんごとありゃ、どやし上げちゃろうか」

「気のきいたことこくない」

伝助がわめいたと同時に、相手の男の棍棒が、ゴボッとにぶい音をたてて伝助の頭へめりこんだ。

「わあっ」

よろめくところへ、外の七、八人がいなごのようにとびかかってきて竹槍の柄でポカポカ叩く、足蹴にする、とうとうその場で伝助をのばしてしまった。

千太郎は驚いた。仲へ割って入ると、ようやく相手をなだめて伝助を抱きおこした。泥まみれではあるが、どこにも出血はない。首から上がみみずばれになって、顔の造作が変わっている。ぼんやり立っている仲間のものを指図して近所の農家から戸板を一枚借りてこさせると、ウンウン呻っている伝助をその上にのせた。

「あんた達、こげえひどい目にあわさんでも、話をすりゃわかったろうに」

千太郎は先頭の男を見上げて言った。

「うんにゃ、あんたもおったから、ようわかっとろうが、これから先を歩いとったら、どんな危ねえ目にあうかわからんから、俺が注意したとにこん外道、何ちゅう挨拶な。

あんた知るめえが、昨日もこの先で、まっ暗闇の中を風呂に行きよった男が、誰かに斬られて死んだとばい。俺達あここで一晩中警戒しとるとにひやかしどころか、鼻のむいとる方へゆくとか何とか、横着も程々にするもんばい。あんた達は、ひやかし見物やろうが、同じ炭坑で働いとる俺達は、生きるか飢えるか、境目でこうしてこれ以上騒動が外から入ってこんように警戒に一生懸命になっとるとばい。ちった俺達の気持ちにもたって貰いてえ」

なるほど暴動見物などとはおくびにも出して言えた義理ではない。

「わかった、黙って帰る」

千太郎は戸板の端をにぎると仲間を指図した。警戒の連中は、ガヤガヤと焚火の方へ引き上げて行った。暗闇の彦山川にそって、戸板の上でウンウン呻る伝助を担いだ千太郎達は、行くときの元気はどこえやら、トボトボと落武者のような恰好で帰った。

 

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「俺も一ぺんはとび出そうかとも思ったが、何せこっちの理屈がようねえ。謝るのもむかっ腹だしと思うてそのまま引きあげたが、いやひどい目にあったよ。伝助かい一週間もねたろうか。

何でそんなにお米が高こうなったかって?うんそりゃ鈴木商会とか言ったかな、恐ろしゅ別嬪の後家が社長じゃったが、こいつが米の買占めをやったんじゃな。今のように米は政府で売っとらんじゃったから、こんな騒動が起きたんじゃな。この騒動があってから間もなく、米は政府で売るようになったよ」

隠居は吐月峯(とげっぽう)にポンポン雁首を叩きつけながらきざみのはいっている抽出(ひきだし)をそろりとあけて覗いた。

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第26話

 

坊主の彫跡

 

「どうじゃい、千太、都がいいか雪隠(せっちん)がいいか」

逃げ廻っていた飛車の頭に桂馬をうって息の根をとめると、平三郎棟梁が得意そうに言った。

「親方、どうせこいつは、勝負になりませんばい」

「ばかこけ。さっきは俺がひどい目にあわされたけん、今度は雪隠にゆくまでやめんぞ」

「もういいよ、こいつは俺が負けとるもん」

「うんにゃ、もっと指せ。途中で投げるとは卑怯じゃい」

飛車の討死にすっかり戦意をなくした千太郎はどうして王様を逃げたものか、望みのない盤面をもう一度見直して溜息をついた。

「ごめん下さい。ごめんなさい」

飯場の土間で来客の声がする。生き返ったように千太郎は立ち上がって、間の襖を開けた。

鳥打帽にくたびれた袷の尻をからあげ、商店名のついた小さな前だれをした40年輩の男である。横に紐のついたギリギリあめの箱を置いている。

ギリギリあめというのは、大正の中期、炭坑の子供達に大いに受けたあめである。ゴマの入った堅いあめをかんなで削り棒に巻きつかせる。客を呼ぶために、竹筒の端をさいて木製の歯車をつけた柄をにぎってふり廻すと鳴るので、子供達はギリギリあめと言った。

千太が顔を出すと、

「望月さんは、おりますでしょうか」

ギリギリあめの親爺はていねいに鳥打帽をとって頭を下げた。

「へい、おりますが」

千太郎は立ったまま次の言葉を待っていると、奥から出てきた平三郎棟梁が、男を見てびっくりするような声を上げた。

「ありゃ、有馬のだんな。こりゃめずらしい。叉、何ごとですな。よう寄ってくれました。さあそこに立っとらんと、一寸上んなはれ。さあさあ」

「一寸所用でこちらへ来たもんじゃから」

「まあ、話はあとで、さあ、どうぞどうぞ」

棟梁は手をとるようにして、居間へ招じた。飴屋もニコニコしながら、草鞋をぬいだ。

 

「えらい親爺は、へえこらしとるが、あん奴あ何んじゃろうか」

「あの模様じゃ、昔お世話になった人かも知れんぞ」

「うん、そうかも知れん」

そんなことを善助と話し合っているとき、土間の向こうの仕切戸が開いて、平三郎棟梁の大きな声がした。

「千太ア、一寸来う」

「へーい」

何ごとだろうと思って棟梁の居間に入ると、ギリギリあめが床柱を背に、偉そうに座っているのを見てもう一度驚いた。

「まあ座れ、この方はなあ、有馬さんちゅうて本署の刑事さんや。俺に力をかしてくれるように言われるんじゃが、俺よりお前の方がこの仕事には向いとろうと思うてお前に頼むことにした。俺が若い時分、この方にはずい分お世話になったんで、その恩返しといっちゃあ何だが、俺に代わってお前がご恩を返して貰いてえ」

 

望月平三郎は、取引の相手の隣のヤマへ、最初素直に引き渡したけつわり坑夫が、平三郎の要求を無視した相手方の納屋頭に、さんざ成敗をうけとことを知って立腹した。

向こうへ渡すとき、坑夫は返すが私の顔を立てて決して成敗を加えてくれるなと、くれぐれも頼んでおいたのである。

怒った平三郎は、自らそっと乗りこんで、このけつわり坑夫を自分のところへ奪いかえした。

その後、平三郎が囲っていると知った隣のヤマからは、取締や人繰が入れ替わり身柄引き取りの駆け合いに来たが、一度約定をたがえて顔に泥をぬられたんじゃ、けつわり坑夫は二度と渡すつもりはないと頑強に拒絶した。

そして、とうとう何度目かの人繰が駆け合いに来ての帰り

「仕方がねえ、こうなりゃドスに物言わせても受け取りにくるぜ」

と捨て台詞を残して帰っていった。いよいよ来るときが来たなと平三郎も度胸を据えた。

 

 

人に手伝って貰って、空納屋から畳を30枚も運んで、土間の入り口に15枚づつ左右に重ねた。中へ進入してくるものは、いやでも二尺巾の畳の間を通り抜けねばならないようにして、平三郎はその奥に剥がした畳を1枚敷いて座った。

巻き添えをおそれて、身内のものはほとんどよそへ退避させ、見張りを立てた。そして何日かをすごした或る日、とうとう3人やってきたという注進をうけた。

ドスの目釘をたしかめて、抜き身のまま待っていると、納屋の外側で異様なざわめきがきこえる。平三郎は、中腰になって、畳の陰へ身を引いた。バタバタと荒々しい足音がして表にとまった。

「やい、平三郎、出てうせやがれ。うぬが出んとこっちから叩っこむぞ」

平三郎はだまったまま刀身をうしろへひいた。

「とびこめッ!!

その声が終わるか終わらぬうちに、畳に身体をぶっつけながら、一人が狭い間を突進してきた。そ奴の上半身が畳の外へ出た瞬間、平三郎のドスは唸りを上げて侵入者の耳から下を斬り下げていた。

「うおうー」

怪獣のような声をだして前につんのめった奴を股越して、次に来る奴の真向から劒尖を突き出した。心窩(みぞおち)を抉られた二番目の男は、これも悲鳴を上げて前へのめった。

三番手はこの悲鳴を恐れたのか、忽(たちまち)踵をかえして逃げ出した。倒れている二番手をふみ越した平三郎は、血刀提げて三番手の後を追った。

逃げるもの、追うもの、ものの50間も行ったところのの納屋はずれに彦山川の土手がある。その土手を這い上がろうとしている奴のうしろから、外道ッと一声ふり下した切尖は、相手の背中を大きくさいた。勾配からすべり落ちて土手下にころがっている奴のとどめを刺そうとしたとき、

「まてッ、望月」

うしろから重い声がした。ふり返ってみると署の有馬刑事である。

「もう勝負はついた。そいつの止めを刺そうと刺すまいと、お前の勝ったことには間違いねえ。あたら追討をかけて自分の罪を重うする必要はねえ。止めろ」

走ったとみえて肩で荒い息をしていた。

「そいつをよこせ。そしてお前は俺と一しょに本署までこい」

有馬刑事は平三郎のドスを取り上げると、あとから駆けつけた連中に、倒れている男をすぐ医者へ運ぶように指示してから、平三郎の顔にとび散っている返り血を拭えと、腰に提げていた手拭をとって言った。有馬刑事の制止のおかげで三番手の男は命をとりとめた。

時代というものは有難いものである。ヤマの顔役、村の有志の奔走もあって、平三郎は正当防衛が認められ、無罪になった。勿論官憲の立場からの有馬刑事の尽力も見逃すことはできなかったろう。平三郎は有馬刑事を大いに徳として今日に至っていたのである。

 

「どんなことをするんです」

有馬刑事が千太郎へむき直った。

「千太郎さんとか仰言ったね。私は本署の有馬です。お聞きのようにこの棟梁とは若い自分からのお附合いでしてね。今年の3月、貴方も知っとるかもしれんが××鉱山で強盗殺人事件がありましてな。熊田七郎というんですがね、そいつが豊前へずらかっているらしい情報をつかんだので、こんな恰好をして探しているんです。ところが4、5日前、ひょいと人相風態がよく似合う男を見たんで、駐在署でいろいろ調べてみたところ、名前は変わっているがこちらへきてまだ日が浅いというので、何とかホシじゃないか調べてみたいと思いましえね」

「何をしらべるんです」

「そいつは左腕に松桐坊主の彫りものがあることだけはわかっているんです。でも、一つ一つあやしいと思うからといって、わざわざ他国から面通しに参考人を招んだり、本人に腕をまくらせてみるわけにもいきません。駐在の辻本君とも話合ったのですが、ごく内密に彫りものを確保するには、浴槽が一番いいと思いましてね」

「で、そいつは誰なんです」

「ホラ、二た月ほど前、軍隊帰りじゃちゅうて大庭組の世話で取締になった神竹たい」

平三郎棟梁が横から口を入れた。

「しかし、神竹さんなら、わしらと一つ風呂じゃござっせんばい、あの人は合宿におって役人風呂に入りよろうもん。わたしら役人風呂には入られまっせんもん」

「これは誰かれに頼めるもんじゃねえ。かといって私や辻本巡査がウロウロしたんでは、相手がもし目当てのホシだった場合、高とびされる恐れもあるし、平三郎棟梁なら外にもれることもねえし、また何かといい知恵もと思うて相談にやってきたんです。これを知っているのは駐在の辻本君とここにいる3人だけですよ」

有馬刑事は困った顔をした。よし風呂場の裏は幸い山になっている。神竹の入浴のところを裏側の藪から覗いたら、左腕の彫りものが見られるかもしれない。そう思えたので千太郎は元気よく言った。

「よござんす。私が風呂の中を覗いてみまっしょ」

「念には及ばんが他人に気取られるなよ」

棟梁の言葉を背に千太郎は部屋を出た。居間に帰ると善助が待ち構えていた。

「なんごと、じゃったか」

「なあに、ギリギリ飴のおっさん、昔々親方の古い友達じゃけな」

宵のうち千太郎は役人風呂の前の居酒屋の親爺を買収して、居酒屋の土間に座りこんだ。むしろを拡げ藁くずの中に埋まって草鞋を編みながら、眼はたえず風呂場の入り口に配っていた。役人風呂の監視に、ここが一番安全である。神竹が来たらこっそり裏口から壁チョロをやらかそうと決心したのである。

草鞋をあみながら、うす暗い電灯の下の前方を注意するのでは、仲々能率は上がらないものである。それでもどうやら半足でき上がったころ、着流しの神竹が手拭を肩にぷらりと風呂へやってきた。

立ち上がって藁くずをはたいた千太郎が麻裏をつっかけてそっと風呂場の裏側へ廻った。裏手は格好の藪である。坑夫風呂もそうであったが、当時は役人風呂(職員浴場)もたいてい混浴だった。

脱衣場のすぐ近くに手頃なふし孔がある。そこからそっと中を覗いた千太郎は眼を皿のようにしてハッと息をつめた。

つきたての餅のような肌をした若い女が千太郎の正面につっ立っているのである。

神竹はその女に遮られて、向こうで着物を脱いでいる。覗いていた千太郎は、神竹の彫りものなどはどうでもよくなった。この美しい観世音菩薩の裸像の方が、松桐坊主よりもよっぽど有難かったのである。

気がとがめて神竹の方をチラリとながめたが、湯船に首までつけている。この女、だれの嬶アかな。顔まで拝んでやろうと思って、眼をふし孔にぐいと押しつけたとき、こちらを向いて身体を拭いていた美しい丸顔の女の視線と一寸触れたような気がして遽てて眼をふし孔からはずした。

こっちの思いすごしだったかもしれないと思ってそっと覗くと、身体を拭いていた若い女が上体を折って洗桶に手をかけるところである。

手拭でもしぼるのかな、と思って目玉を押しつけていると、その真向かいからいきなり

「この色気狂いがアッ!!」

黄色い声と一しょにパッと洗桶の中の湯が、大きな波になって千太郎の眼玉にとびこんできた。

いや、驚いたのなんの、腰を抜かすほど肝をつぶした千太郎は、裏手の山を這い上がって、ほうほうの態で飯場へ帰った。

大納屋では、有馬が待ちあぐんでいたが、千太郎はぬれた衿元を気にしながら今日は失敗したがこうなりゃ男の意地だい、明日はきっと探ってみせるぜとてれながらつぶやいたきり、居間へ戻ってふとんをかぶった。

その晩の繰込は他の人繰に代わって貰った。

今日も千太郎は、夕方から居酒屋の土間を借りて草鞋を作っていた。

どうして覗いたものかと考えながら、ついおこした助平根性を、ほんのり後悔してみたくなった。

昨日の今日、また壁チョロでもあるまいと思いながら、やっと一足作り上げて、鼻緒をしめながらぐいと引っぱって強さを試しているところへ一人の男がブラリと居酒屋ののれんを分けて入ってきた。

「ほほう、千太、またおかしなところに来て草鞋ば作っちょるとやのう」

小頭(現場係)の山瀬である。

「何や、誰かと思うたら山瀬さんかい。また角打な」

「うん、そげえなとこたい。お前、また何ごとか」

「いやあ、ここの土間が広うて草鞋を作るとにはもってこいじゃもんやから、昨日から借り切りたい。ここに座って藁を編みよると、風呂場帰りの別嬪さんやら、役人の奥様方が拝まれて、2、3年は永生きするばい」

「わっはっは」

腰掛に腰をおろして笑いながら山瀬は居酒屋の親爺は焼酎を一合もってこいといった。

「待ちなさい、山瀬さん。今日は俺がここに居合わせたんじゃから酒をおごろう。おやじ、五合ますで酒を頼もう。それから竹輪を2,3本一しょにな」

「はう、そりゃすまんのう。よかよか今度お前のとこの検取りの時やその分考えとこうたい」

「なあに、そんなことせんでも構やせんよ」

「時に千太、望月の棟梁に5円ばかり都合して貰うてくれんか。嬶アにこの前一寸患われた奴が今だに祟って苦しゅていかんわい。なあに善助の伝票に利子共10円で払うようにするからな」

「ああ、そんなら親方に言うて、明日俺が坑口に持ってゆこうたい」

「うん、頼んだぞ」

山瀬小頭は、勝手な注文をふっかけて安心したのだろう。五合枡を取りあげて一息ぐいと飲むと竹輪を頬ばった。

「山瀬さん、あんたまだ風呂に入らんとな」

「風呂か、風呂はどげえでんよか」

「あんたはよかろうばって、俺が入りたいとたい。どうじゃろう、俺を一ぺんつれて役人風呂に入れてくれんやろうか。俺はまだ役人風呂にゃあ入ったことねえもんな」

「入ってどうする。ふろは、どこでも同じことだぜ」

「そう薄情なことを言うもんじゃねえ。折角あんたが居るとじゃから頼んどるのじゃろ」

傾けた五合枡の四つ角から、一滴も水滴が落ちてこないのを確認すると、惜しそうに枡をおいた山瀬はフラフラと立ち上がった。

「ようし、ついてこい」

「一寸待っておくれ、ここを片付けとこう」

千太郎は、折角の機会に神竹が入浴に来ないでは何にもならないと思った。

「あんた、今飲んだばっかりに、もう風呂に入ってもよかとな」

「何よう、こん外道、たった半升やそこいらのはした酒をくろうて、風呂にも入られん俺と思うちょるか。この鼻くそ」

「まあ、そう言わんと、一寸腰をおろしておくれ」

千太郎は藁束を片付けながら、絶えず表に眼をくばって時を稼いだ。

「山瀬さん、あんたあさってが検取りじゃが、検取り祝いのときは何がええかな」

「そうじゃのう、鶏の水たきにするか。もうちっとすると河豚がでるがなあ」

山瀬の気嫌ががぜんよくなった。

「うん、河豚も白こが入らんとなあ」

「ばかこけ、白こなんかありゃとうしろのくうもんじゃ。やっぱり河豚は肝やな。肝に限る」

「いやあ、俺は肝まで拾いくいしてお陀仏にゃなりとうねえ」

「なにぬかす、お前なんかよう河豚の肝の味を知らんで河豚の話をするのう」

千太郎の藁くずを掃く手がピタリと停まった。今、神竹が風呂へ入って行くところである。

「小頭さん、待たせてすんません。さあつれて行ってくんない」

山瀬が気軽に立って外へ出た。千太郎もうしろからつづいた。

 

 

風呂の中は50年輩の女と、今入ったばかりの神竹と二人きりだった。山瀬と竝んで胸にまいた晒布を解いていると、神竹が湯槽の中からじろりと千太郎を見た。射るようなまなざしを、やわらかい微笑で受け止めた千太郎は、こくりと挨拶をした。

ここの浴槽は、さすがに役人風呂で、湯槽の中で石けんを使っているものはないと見えて、石けんの泡もギラギラ光る油も、湯の表面にはういていなかった。

「チリン、チリンとやってくるはあ、自転車のりの時間借りーっと」

風呂のふちを枕にした一杯気嫌の山瀬が、気持ちよさそうに唄いだした。こいつ道楽者と見えて、唄は結構三昧にのる調子をもっていた。

湯槽につかって何くわぬ顔で注意していた千太郎、まず大きな失望を感じた。神竹の左の腕のつけ根には、松桐坊主とは似ても似つかぬどぎつい青赤に彩られた紅葉が大きく彫られていたからである。

有馬旦那、カンが狂ったな、と思ったが、フトその青刺が新しいのに気がついた。

ひょいとしたら、このどぎつい彫りものは、あとから重ね彫りしたのじゃなかろうか。だが迂闊に覗こうものなら大漁を逸することにもなりかねまい。

思いきって千太郎は湯槽から上がった。手拭い一ぱい石けんをぬりつけて神竹のうしろへ廻った。

「神竹さん、背中こすらせて下さい」

にっこり笑いながら、やんわり背に手拭をすべらせた。神竹はびっくりしてふりむいたが、千太郎の笑顔につられて、

「うん」

と言ってしまった。

この野郎陰気野郎だなあ、と思いながら、千太郎はだんだんと指先に力を入れた。

間近に見る紅葉は、まだ3月とたたないと見えて、かすかに腫れ跡がのこっている。こいつかもしれない、と思うと、千太郎はむらむらと敵意がわいてくるのをおぼえた。

炭坑太郎をくいものにしゃがる下罪人め、貴様のような奴がいやがるから、炭坑太郎は世の中の人さまよりも1枚下の種類人間に扱われるんだ。ぬすっとに入りゃがって人を殺しゃがるなんて、こんな野郎、ゆるしちゃおけねえ。有馬旦那の手を借りるまでもねえ。俺がとっちめて突きだしてやろう。

腕のつけ根をそっと覗いた。青い紅葉の葉の間に、何か黒い線がひいてある。

千太郎の手がとまった。じっと青刺をみつめている千太郎に気がついて、遽てて神竹がふりむいた。

「藤島、どうした」

「神竹さん、この青刺はまだ新しいねえ。この下にある跡は、坊主の跡じゃねえかい。ほら、ここんところが、山でここに月が昇ってやがらあ」

「なにっ!!」

神竹が立ち上がったと同時に、風呂場の入口の戸がガラリとあいた。

「神竹、署まで来て貰うぞっ!!」

有馬刑事が辻本巡査と一しょにとびこんできた。ハッとそれをふりむいたところを、千太郎が片足をとばして神竹の足をすくった。

コンクリートの上をドスンと大きな鈍い音を立てて、神竹が仰向けに引っくり返るところを、有馬刑事が馬乗りになった。

 

 

「いやあ、あとで有馬刑事にうんとこしぼられてねえ。いらぬことに出しゃばって、もし取り逃がしたらどうするつもりじゃったちゅうてねえ。俺の帰りがおそいので、気になって辻本巡査とつれだってそっと風呂場にきて覗いてみると、俺が背中をこすっているところじゃったんだねえ。じっと表に立って、それで俺のせりふをきいとったというんじゃ。今なら警察に協力で、金一封ちゅうとこで、新聞にもでかでかとのるところじゃがねえ。

それから面白いことは山瀬小頭よ。青うなってその晩飯場に来てねえ。俺をそっと呼び出した。もう棟梁から借りる5円はいらんと言うんじゃ。心配するこたあねえと言って棟梁から借りて次の日坑口で渡してやったがねえ」

やわらかい春の陽ざしが、泉水の上に突き出ている連翹(れんぎょう)の花びらを黄金色に光らせている。

緋鯉が水面に浮いて、のどかな波紋をひろげると、すーいと岩陰へもぐっていった。

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第25話

 

けつわり

 

「吉ちゃん、朝から、なにすねとるとね」

おそのさんは、肌着のチャンチャンコの紐をしめ直しながら、14も年下の若い先山に、駄々っ子でもいたわるような調子できいた。

「・・・・・・・・・」

由蔵は、むっつり黙りこくったまま、スラ棚の上に胡坐をかいて、じっとおそのさんをにらみつけている。

「な、機嫌なおして、鶴は握ってつかっせ。さ働こ。はたらこ」

「うんにゃ、俺あ、のそん(早昇坑)する」

「この人じゃろ、朝っぱらからおかしなことばっかし言うて、折角下ってきたとに、あんたがのそんばしてんなっせ、うちまで弁当さげて一文にもならんやないか。そげなこと言わんと、な、機嫌なおして働らこ」

「そんなら、おそのさんは、どうして俺の言うこと聞いてくれんとな。俺ももう子供じゃねえ。毎日、毎日子供あつかいにして、人を調子にのせて働かしといて、俺のいうことは一向相手にしてくれんじゃないか」

「そう、言うたっちゃ、うちゃ亭主持ちばい。おとっちゃんな今柏屋におるばって、もう近いうちに、こっちへござらすとばい。おとっちゃんが来たとき、あんたとおかしな話でも聞いてごらんどう言うて言い開きをしますな。吉ちゃんも若いとやから、こげな婆さんを相手にせんでも、若いじょうもんがなんぼでもおろうもん。さ、そげな無理言わんと働いてつかっせ」

「俺あ、おそのさんが好きでたまらんとばい。しんから好いとるからこそ、俺あ今日まで辛抱してきたとばい。年が上なら、どうあるとな。俺がまだ19なら、おそのさんを好きになったら悪いというとな」

「吉ちゃん、あんたの気持ち、ようわかっとるばって、うちはどうにもならんと。もし人にでも知れたら、どうしますな。うちが、あんたをだましたことになるやろ。まさか吉ちゃんと二人づれでけつわるわけにもいかんじゃろうもん」

「おらあ、おそのさんとなら、どこでも行く」

「その話なら、仕事がすんでからにしようや。な、機嫌なおして腰上げてつかっせ」

「うんにゃ、俺あこのまんまのそんする。そして上がってから、みんなに言うてやる。朝っぱらから、おそのさんにくどかれて、腰が抜けて仕事ができんから上がって来たと言うてやる。」

「そんな、そんな無茶なこと、ね、たのむからそんなことだけは言わんといて」

「うんにゃ、言うぞ。今日俺の言うことを聞いてくれんごとありゃ、俺はのそんする。そしてみんなに言うて言いまくってやる」

「な、吉ちゃんはいい人やろ。うちをそういじめんでもええやろ、な」

「俺あ、悪者になってもよか。おそのさんを自分のものにできんごとありゃ、おそのさんもまっとうに道を歩かれんごと、みんなに言うてやる」

「吉ちゃん、うちや、どうすりゃ、ええとな」

おそのさんは困惑した。亭主より一足先に模様見がてらこのやまへ来て働いているが、便り次第で亭主もあとからここへやってくることになっている。そして単身、ここの飯場を頼ってきて、まず有り付けられた先山がこの吉蔵である。

19といっても、腕の立つこの先山に見離されることは、後山としても大きな傷手であった。それにおそのさんも、もう亭主と別れて一月に余る忘れていた女盛りの肌の淋しさが、誰も通らぬ暗い切羽で、今この一途の若者を前にしてふと甦えると、理性と情熱の血潮が、俄然彼女のやわ肌の下にふくれる血管の中で、はっけよい、はっけよいと四つにくんで、激しい押し合いを始めていた。

しばらくたって、肌着のチャンチャンコに顎を埋めて、じっと考えこんでいたおそのさんが、しずかに立ち上がると、

「吉ちゃん、誰にも言うたら、いかんよ」

そっと、やさしく吉蔵の肩に手をかけた。

 

「吉ッ!!一寸ここに来いッ!!

千太郎は或る日、変な噂を耳にして、自分の居間に吉蔵を呼びよせた。

「貴様、おそのに手をかけたな。隠そうたってそうはさせねえ。おそのの眼を見い。四六時中、貴様の身体を追うて血走っとるじゃねえか。あの眼は只の先山と後向きの眼じゃねえ。結構近づきになった眼の色や。貴様、おそのに亭主があることを承知で手をだしたんか。あと四、五日もすりゃ、おそのの亭主がやってくる。俺達としちゃあ、折角腕の立つ先山を見捨てとうはねえが、間男をそのまま見逃したんじゃあ、何も知らぬ亭主にすまねえ。今からとは言わねえ、明日中に、どこでも好きなところにふっとんで、望月の飯場から消えて失せやがれ。貴様ぐれえの腕がありゃ、何も好んで人の嬶アに手を出さんでも、若え別嬪をなんぼでもくっつけてやるんじゃったに。なんちゅう馬鹿たれかこん外道」

吉は黙ったまま不貞腐れたような顔つきで自分の居間に帰っていった。荷ごしらえといっても何もない。吉はその夜、ふらりと外へ出るようにして、望月の飯場から姿を消した。

だが次の朝、飯場の若いものに、吉蔵だけでなくおそのの姿も見当たらなぬと報されて千太郎はびっくりした。

「ちきしょう、二人してけつわりやがったかな。ばかたれ共が」

千太郎は、何か裏切られたような気持でうんざりさせられた。四,五日して粕屋から望月の飯場を頼って、おそのの亭主がやってきた。

「そうですか、わたしに甲斐性がないもんやから、仕様がござっせん。どこに行ったところで、同じこと。折角ここに頼ってきたとやから、ここで使うて貰いたいけど、おそのが不始末をしでかして、わたしがここで働いたんじゃ恥ずかしゅうござんすけん、わたしゃ筑前口の方へガメツキ(仕事探し)に行ってみまっしょ」

人の好さそうなこの亭主は、草鞋の紐をとかずに、すぐいづれかに立ち去って行った。

めまぐるしい千太郎の生活は、いつの間にか、おそののことも、吉蔵のことも、それからおそのの亭主のことも忘れさせていた。

もう、わくら葉がチラホラして、雨もよいの空からは、霙でも降ってきそうな冷たい晩秋のある日、千太郎は労務の詰所で、けつわり夫婦がどやされているときいてハッとした。

「おその達ではあるまいか」

不安が胸をかすめて麻裏をつっかけると、労務の詰所へ急いだ。飯場の若い者が5,6人あとからついてきた。

労務の前では10人ばかりの男女が、物おじ顔で、こわごわ中を覗いていた。

「この、ばか者どんがあ」

大きな声に続いてピシリと鞭の音がした。ついでヒーッと女の悲鳴が千太郎の新造につきささった。ポトッ、にぶい音がおきると、ウーンと男のうめき声が聞こえる。人がきをわけて中に入ると不安は適中して、正しく土間に転がっているのは裾もあらわな乱れ姿のおそのだった。

その向こうで吉蔵は天井から台車綱(マニラロープ)でつり下げられ、取締りの一人が成木の切れはしで背中をつづけさま叩き上げていた。

1、2回眼を廻しかけたと見えて、吉蔵はバケツの水を浴びせられ、ずぶぬ

れになった身体からはまたポトポト雫が落ちていた。

「待ってください、塚田さん」

おそのの髪をにぎって、頭をふり廻している取締の手を押さえて千太郎は静かに言った。

「なにおう」

ふり向いた塚田取締は、それが千太郎であると知ると、ふり廻す手を止めて表情を和らげた。吉蔵を叩いていた取締も手を休めてこちらを向いた。

「大取締さんに申し上げます。後程棟梁平三郎改めて挨拶に罷(まか)りこ

しますが、取りあえず千太郎、棟梁に代わりまして二人の身柄望月組に下げ渡しの程、お聞き届け下さいまするようお願いに参上仕(つか)りました。もともとこの二人不届至極でございます故、これより飯場へつれ戻り、充分折檻致しますれば、何卒よろしくお取計らい下さいますようお願い申し上げます」

千太郎はピタピタになった土間へ座って手をついた。大取締が千太郎に寄ってきながら、ふり向いて言った。

「おい縄をといてやれ、千太、今日のところはお前の顔を立てよう。平三郎ともよう相談して、二人の身柄を片付けてやれ」

「早速お聞き届け下さいまして有難うございました。お礼には叉のちほど平三郎にお伴してお伺いすることと致しまして、二人の身柄、一まず千太郎がお受け致します」

千太郎は入口へ向かって顎をしゃくると、若い者が5,6人入ってきて、吉蔵とおそのを抱きあげた。

 

 

「隠居、吉蔵とおそのは一緒にさせたかい」

「うんにゃ、別れさせた。さすがにおそのの方が行末を案じて別れようと言い出した。吉蔵は間もなくどこかへ草鞋をはいたが、おそのは残って叉まじめに働きだした。半年程して先夫の居所がわかったので、飯場から便りを出して亭主をつれてきたよ。棟梁とわしが仲へ入って世帯を持たせたが、それからはついおそのの浮いた話は一ぺんもきかなんだよ」

「それにしてもつり下げて叩くとはひどいな」

「昔はけつわりを捕えると、ひどい目にあわせたからなあ。只言わず語らずわからんだけの話で実際に辺鄙な島などでけつわりそこねたものが、いくら叩き殺されたか知れたもんじゃない。天井からつり下げて目茶苦茶に叩く。5分程もするとウーンといって目を廻す。そりゃ伸びたぞといって傍にくんであるバケツの水をぶっかける。息を吹きかえす。叉叩く、伸びる、水をかける。女なんか着物はおろか腰巻まで取り上げて入口の柱にくくりつける。わしらのような若い者はまともにその前は通れんじゃったねえ。どんなに炭坑を美しいものにしようと努力する人がいても、昔の炭坑がみんなに嫌われたのは、こんなのが一番大きな原因じゃなかったかねえ」

いつもの癖で、一つの話題が終わると、隠居はさも旨そうに、大きく煙を吸い込んで、ブーッと天井へ吹き上げた。

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第24話

 

ご幣ぬすみ

 

「あんた県道の左側の山に大きな石碑が立っとるじゃろうが」

隠居がフト思い出したように言った。

「はてな、どの辺りじゃろか」

「こりゃ驚いた。あんたともあろう人が、あの石碑に気付かんとは、全くもってうかつ千万ということばい」

「で一体何の石碑かね」

「遭難者追福の碑と書いとるよ。裏に明治40何年とか彫っとったねえ。じゃからあの石碑は昔の坑口の方を向いとろうが」

「遭難者ちゅうと、ガス爆発でもあったのかね」

「その明治40何年かに坑内火災があって60人余り死んだことがあったらしいね。それの石碑じゃよ。あの坑口、清川品吉ちゅう俺の兄弟分がその頃めずらしいコンクリをぬって造り上げたんじゃ。今は坑口の上が通り路になってしもうたけど、あそこはもと坑口の上の山の神様を祀ってあったところでなあ、柵が結ってあって人は入れんじゃったよ。その神棚の前に大きなご幣が立っとったんじゃが、こいつを俺が晩にこっそり引き抜いて坑木場のところに捨てたことがあったよ」

「ほう、叉、いたずらかい」

「何の、いたずらなもんか。人助けたい」

「ちょい待ち」

私はポケットからあわててメモを取り出した。

 

豊後高田の産、川上伝五郎は望月組の飯場では一番の力自慢であった。その伝五郎が坑内風にあてられて、ものの一週間も高熱にうかされつづけている。

昔の炭坑では病名のはっきりしないものは、みなこの坑内風という炭坑独特の病名で片付けられた。無論医者にも見せたが、一向にらちがあかないし、山伏を呼んで祓わせてみたが、何の効果も現れてこないのである。

日に日に細くなってゆく伝五郎が不憫で、千太郎はここ二、三日仕事を休んで枕元につきっきりで看病した。半分は意識不明のまま呻りつづけていた伝五郎が、その日の夕方、フト正気に返った。枕元にいる千太郎を不思議そうに見つめていたが、水がほしいと嗄(しゃが)れた声で言った。

千太郎が吸呑をとって口へ運んでやると、うまそうに1口吸ってから、始めて伝五郎が重い口を開いて奇妙な話を始めた。

 

 

伝五郎はその日左三片の上添風道の高落仕繰にかかっていた。ここは恰度断層際で、去年の今頃第1回目の高落ちをしたとき、伊予から来ていた親娘づれの仕繰夫の娘の方が下敷きになって死んだところである。

傷心の父親は、間もなく娘の骨箱を抱いて四国へ帰っていったが、伝五郎はフトそのことを憶い浮かべて、朝からいやな気分に襲われた。

それでもどうやら天井の空木積だけ組終え一息入れてから、大岩に一本手繰を繰ろうと思って立ち上がったとき、何かのはずみでつまずいて節頭の柄を踏みつけてしまった。

置いてあった位置が悪かったと見えて、真新しい節頭の柄はつけ根からポッキリ折れた。嫌な気持ちだったが、これくらいのことで早退でもあるまいと思い返して、恰度昼食の頃でもあったし、後山の若い者を修理に上げて叉腰を下した。

空腹だったが何だか弁当を開く気にもなれなかったし、一服ほしいと思ったが火番まで出てゆくのが面倒だったので、枠脚にもたれかかって、ついうつらうつらしかけた。

そのうち何とも言えぬ不快感が全身に覆いかぶさってきたかと思うと、妙な硬直が全身に伝わってゆくような気がして身体の自由がきかなくなった。

これが襲われるという奴か、凍りついたような全身は動くこともならず、言い知れぬ不安と焦燥を感じながら高落の下に眼をやったとき、伝五郎は全身の毛穴が一度にふくれ上がってしまうような恐怖におそわれた。

去年ここで死んだ娘が、たった今まで自分のいた空木積の下に立って、じっと自分をみつめていたからである。

柄にもなく「ワアッ」と大声をあげたとたん、正気に返って眼がさめ、同時に金縛りもとけた。

さまざまと見た娘の顔が頭の中をぐるぐると回転して気分が悪くなった。一人でいることの無気味さと、大の男がと笑われるであろう見栄とが、つい誰にもこのことをしゃべらずに、その日はそのまま早昇坑したが、夕方から原因不明の発熱を出した。というのである。

そして終わりに伝五郎はもう一度、その娘に逢えるものなら逢って、娘の願いがどんなことだったのか聞きたかったとつけ加えた。

 

「善、どうしたもんじゃろう」

千太郎は弟分の善助を呼んでそっと相談した。

「そんなら隣村に祈祷師がおろうが。あれはよう効くちゃうぞ。今からでも行って拝んで貰うたらどうじゃろうか」

千太郎もフト思い出した。2,3年前、この祈祷師のところへ頼みに行って度肝をぬかれたことがある。

「よし、行ってみよう」

二人は麻裏をつっかけてもう夕闇せまる村境の山路を越えて小一里ある隣村の祈祷師の家をたずねた。

すぐに一度見たことのある鶴のようにやせた白ひげの老祈祷師が尊大にかまえて出てきた。

訳を話して、もう夜だから明日いこうと渋る白ひげを、帰りも送りますからと拝み倒して、祈祷の道具一式を風呂敷に包み、いまきた道を白ひげのお伴で飯場に帰りついたのは、もう日もとっぷりと暮れてからだった。

うす暗い8燭(しょく)の電灯の下で白装束に着替えた祈祷師が3尺ほどもある大きなご幣を伝五郎の頭にかざして左右にふりはじめ、何やら訳のわからぬ呪文を唱え始めた。

かしこまっている千太郎と善助の足が、どうやら人のものになり始めたころ、今まで眠っていた伝五郎が、急にひょいと床の上に正座して、白ひげの方へ向き直ったかと思うと、女のような声をあげてさめざめと泣きだした。

見ていた千太郎も善助もびっくりした。息をころして尚もみつめていると、白ひげが泣いている伝五郎におもむろに口を開いた。

「お前はどうしてこの罪とがもない男に取りついたか。まことのことを述ぶるならば、理由によってはお前を浮かばせてもやろうが、うそいつわりを申すにおいては、金剛金縛りの術をもってお前を未来永劫地獄の苦しみから浮かばせぬから左様心得て遠慮なく何なりと願いの筋を申してみよ」

きいていた千太郎にも何かの威圧を感ずるほど白ひげの人相が変わってきた。それに威圧を感じたのか、何も言えずもじもじしている伝五郎へ鶴の白ひげの頭のてっぺんから、雷のような叱咤がとんだ。

「如何なる理由じゃッ!!

伝五郎は座ったまま、小さくなってぺこりとあたまをさげた。

「はい申します。実は私は去年坑内で硬(ぼた)に埋まって死んだ佐伯みきでございます。早う成仏しとうございますけんど、どうしても外へ出られません。この人に頼んだら出して貰えんやろうか思いまして、まこと、ごめいわくとは存じましたが、お願い申しましたような次第です」

伝五郎の声は細く女の声のようになって千太郎の耳にひびいた。

「何故、出られないんだ」

「はい、坑口までは上がれますけんど、坑口の上の山の神様には大きなご幣が立てかけあります。あれが恐ろしゅうて、どうしても坑口から上がれません」

「しからば、そのご幣を取り除いたならば、お前の執念は、この男の身体から離れて成仏できるか」

「はい、坑口さえ上らして貰うたら、私はそのままお先祖さまのところへ帰れます」

「よろしい、明日とは言わず今夜のうちにそのご幣は取り除いて進ぜよう。お前はすみやかにこの男の身体から執念を除いて坑口の下で待つがよい。わかったか」

「はい」

「よいか、裏の雨戸を半ば開けるからそこから執念を呼び戻すがよい」

千太郎が裏の雨戸を半分開けたとき、伝五郎がウーンと呻って頭を裏の雨戸の方へ向けてふん反り返った。

誰に知られてもまずいので二人でそっと祈祷師を山越に送って、帰りついたのは、もう真夜半の一時を廻っていた。

気になるので伝五郎の枕元へ寄ってみると、宵の口とはうって変わって安らかな寝息である。そっと額に手を当ててみると、気のせいか熱もだいぶ下がったようである。

「やるか」

千太郎が立ち上がった。もう中秋もすぎた夜気はひんやりと二人の衿もとを湿らせた。開口場(繰込場)の裏から、こっそりと廻って坑口の上へ出た。夜目にも山の神の外柵がくっきりと白く浮かんでいる。気がとがめるので柵の前で千太郎は麻裏をぬいで素足になった。素足にさわる草の露は、思った以上につめたい。

善助を柵の外に待たせて、そっと柵を越えご幣に近づいた。千太郎は山の神様の頭をふんでいるようで、足元から急に樽柿のように足がはれ上がってくるようなきがしてならない。

ご幣をつかんでぐいと引いた。ご幣はわけもなく千太郎の手についてきた。

「山の神さん、こらえておくれ。悪さじゃねえ人助けのためじゃけんな」

思わず小さい声が出て、ご幣を小脇に抱えると柵の傍らへ走り寄った。柵の外から善助がそれを受取った。

麻裏をはいて二人は反対側の坑木場の方へそっと小走りに走った。

「よかろう、ここに捨てとこう。夜が明けりゃ人事の役人共がすぐ探すじゃろう。山の神さん。こらえておくら。俺に罰をあてるんじゃねえぜ」

千太郎は坑木の山の間にご幣を立てかけて、こっくりと頭を下げた。

翌る朝、ご幣が坑木場に捨てられてあったことで大騒ぎになり人事係の面々が犯人追求に血眼になっているのを尻眼に一眠りして元気を取り戻した千太郎と善助は仲良く坑内に下がって行った。

伝五郎の病気は、その晩からぬれ紙をはがすように快方に向かって行った。

二人は飯場の棟梁にも、当人の伝五郎にも、ご幣をぬすんだことはしゃべらなかった。そして千太郎も善助も何の罰も当らなかったところを見ると、山の神様も許してくれたのだろうと思って安心した。

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第23話

 

ベカ札

 

垣根からのぞくと、めずらしく隠居は、麗らかな春の陽ざしを背にうけて、縁側で老眼鏡をかけひとりで花牌(はなふだ)を楽しんでいた。泉水の上のこぼれるような連翹(れんぎょう)の黄一色が、否応なしに眼にしみる。

「何やっとるかね」

紫折戸を開いて庭へ足を入れながら私はきいた。

「うん、牌いという奴よ。ホラこの菖蒲(ねぶか)がオレで赤豆が小金、坊主が大金、松が神様で、黒豆が病気というわけたい。病気がオレから遠のいて、神様と小金がオレのわきにおる。いい占いじゃろうが」

隠居は、自己満足をしながら、花牌を片付け始めた。

「隠居、インチキ賽というのはきいたが、インチキ花牌というのもあるかね」

「大ありよ、こいつにゃあベカ札、屏風札というのがあってね」

「うむ、初耳じゃね、どんなもんかい」

「屏風札という奴は、牌の表に薄い紙を一枚はり、それを半分に折って表に松を画く。半折れにしたその裏と台紙に菊をかく。そして松と菊を一枚で使いわけるのよ」

隠居は札を一枚とって説明しだした。どうして仲々鮮やかな手つきである。

「ベカ札は、札の上と下の端に絹針を仕込んでそれに薄い紙を巻きつける。表に菊を画いて親指で表をなでると、クルクル廻って裏の松が札の中から出てくる仕掛けがしとるんじゃ。わしの若い時分、こいつを作るのも素人はだしの奴がおってのう、そのベカ札のために、こんなことがあるじゃろうか、と今時の人が思うような、大へんな事が起きたことがあるんじゃが・・・・」

「ほい、きた」

私は、縁側に腰を下して、ジャンパーのポケットから逸早くメモを出した。

 

 

 

「待ったッ!!

突然息づまるような緊張の中の静寂をひきさいて、立会人の民造が呶鳴った。

今宵大庭組の飯場で開帳されているポン引の座の出来事である。7,8人の円座の中には、親札と子札が配られ、それぞれの札の上で竹内宿禰(昔のお札に描かれた人物つまりこの場合お札のこと)が何枚かずつ重ねられていた。みんなの眼がその親札に集中して、今勝負という時である。

「房ッ!!手を引け、その親札を俺に扱わしてみい」

民造はつづけていった。

「何おう、貴様、俺の親にけちをつけるとか。この親札が、どうしたというのか」

親札を手にした房吉は、顔の筋肉をヒクヒク引きつらせながら、まっ青になって呶鳴り返した。

「とぼけるない、さっきから、おかしいと思うとったら、その親札はベカじゃあねえか。もし俺の眼が狂うとったら、立会人を返上して、この場で指をつめてみせらあ。お前も男なら潔ようかぶとを脱げ」

民造は勝ち誇ったように言った。

「ようし、俺の勝負にケチをつけやがったな。望み通り見せてたらあ、断っとくがベカじゃあなかったら、貴様の命はただじゃおかんぞ」

「面白え、俺の眼がさばの眼ん玉のようにくもっとったら、貴様の好きなように料理して貰おう。その前に、みんなの前で、その親札をはっきり出してみい」

親札をにぎっている房吉の手が、ワナワナと震えた。一発触発の殺気が、何かのきっかけで今破れようとする一瞬前の空気である。

「ようし、見たけりゃ見せてやらあ、受取りゃがれ」

房吉はいきなり前においていた子札の郡を一掴みすると、民造の顔をめがけて投げつけた。5,6枚の花札が民造の顔や肩に当ってバラバラと散った。

血相を変えて民造が立ち上がる。同時に房吉の手が素早くふところへ伸びた。居合わせた連中が、アッと声をのんで腰を浮かせたがもう遅かった。

キラッと光ったものが、まっ直ぐ房吉の懐から民造の脇腹へとんで行ったと同時に、ウォーッと一声民造がころげた。

血潮がパッと畳を染めた。止めようとした一人を突きとばした房吉は、そのまま脱兎のような速さで窓をとび越え、裏庭の暗闇の中へ走りこんでいった。全く手の施すすべもない悪夢のような瞬間のできごとである。

一座のものは気がついて、すぐ民造を抱き起こした。民造は血の気の失せた顔からタラタラと脂汗を流して呻っている。思い出したように、23人が棍棒を提げて裏から飛び出した。気のきいた者が医者へ走った。

つい、23分前まで緊張のうちにも静寂そのものだったポン引の座は、忽ち騒然とした流血の修羅場に変わった。

医者が駆けつけた時は、既に民造は瞳孔が開いたままで、全く手の施しようもない状態だった。

大庭組の若い者達は、手に手に刃物や棍棒を提げて徹宵房吉の行方を追及したが、とうとうそれらしい姿を見かけることができず、夜が明けてから空しく引き上げていった。

本署からも腕ききの刑事が45名来て房吉の足どりを血眼になって調べて歩いたが、沓としてその足どりは不明のままだった。

民造の死体は、次の日給水バックの横の斜面に黒白幕をはり廻らされて、その中で解剖された。

日が経つにつれて房吉のうわさも人々の口の端から次第に薄らいでいった。

 

千太郎はこの頃、時々変な噂を耳にした。

「左七片には狸が出る」

「どうもこの頃、弁当ぬすとが多うて困る。空箱でも残しときゃいいのに、箱かたけ盗ってしまうけん、困ってしまう」

「大畑のうめちゃんは、この十日ほどど三べんも弁当を盗られたけな」

たちの悪い悪戯だろうくらいに思って聞き流していたが、この悪戯はその後もますます続いた。

弁当の被害者は次から次とふえていった。

おかしい、おまけに左七片は望月組の持場であった。千太郎は自分達の組の縄張りのためにも、この犯人を自分の手で取り押さえてやろうと思った。

23日して千太郎は善助と二人で昼飯時に、火番まで出向いて一服すませ、叉自分の切羽へ下りて行った。

左七片のところまで下りた時、うめちゃんという若い娘が、蒼い顔をしてふるえながら登ってくるのにバッタリ出逢った。

おやッと思って安全灯を顔の近くまで持ってゆくと、灯に浮き上がったその顔は恐怖にゆがんでいる。千太郎はやにわに丸っこいうめちゃんの肩をつかんだ。

「おい、どうした、うめちゃん」

うめちゃんは、千太郎を下から仰いで怖ろしそうに言った。

「うちが今、弁当たべようと思うて、風道の実木積んとこで弁当を開けよったら、うしろの空き間でゴソゴソ音がするもんやき、びっくりしてふり返ってみたら、幽霊がじゃがんで、じーっとこっちを見とるもん。うちや怖ろしゅうて弁当も何もかもほっといて逃げてきたと」

「よし、わかった。誰にも言うなよ、火番の奥で休んどけ、俺が今その正体を確かめてきてやる。善行こう」

「おう」

千太郎と善助は、かけるようにして、うめちゃんの切羽から上添風道へ登っていった。

うめちゃんが弁当を開けていたというところまで来たとき、二人は、木積から二間程も手前に、まだ腹にご飯粒を一ぱいつけた弁当箱の蓋がころがっているのを発見した。

物の化に対する恐怖と無気味さが、千太郎の一つ一つの毛孔から突きさすように全身を襲ってくる。それを払いのけながら、木積のうしろ側へ廻った千太郎は、そこに異様な風態の人間が俯付せに倒れているのを見てギクリとした。

用心しながら近よってみると、汚れはてた汗臭い単衣のそでから線香の様にやせ細った手が伸びて、まだ箸をつけていない弁当箱をしっかりと握りしめている。そっと倒れた男の頭の方へ忍んで顔を覗きこんだ千太郎は、危うく声が出そうになった。

山嵐のような頭髪の下の眼はくぼみ、髪は生えすき通るような蒼白さの上を、やんわりとほこりが包んではいるが、半眼に開いて喘いでいるこの男こそ、まごう方ない二ヶ月前、あのポン引の座で民造を一突きにして行方をくらましていた房吉だったのである。

千太郎は、思わず汚れた単衣の肩をつかんだ。

「房かッ!!しっかりしろ、俺だ千太郎だ。わかるか。善、急いで水ッ水だッ」

善助が、はねとばされたように駆けおりた。房吉は、眼やにの一ぱいついた眼の奥で、汚水のように濁った瞳を力なくあけて千太郎の顔を仰いだ。

「千太郎さんか、いい人が来てくれた。俺は、俺は今までここにかくれとった。何べん外へ出かかったかもしれんが、大庭の眼がおそろしゅうてよう出んじゃった。もういい、もう出てもいい。俺をどこへでもつれて行ってくれ。俺も一人前陽の目の拝めるところで死にてえ」

 房吉は喘ぐようにこれまで言って、もの惓げに瞼をとじた。

「房ッ、しっかりせんか、いいか俺が負ぶってやるけんね。しっかりつかまっとれよ」

無表情の瞼からしづくが一すじ糸をひて頬へ伝わった。千太郎は両脇をかかえて房吉を起こしかけた。はずみに単衣のふところから、ポトリと落ちたものがある。房吉を抱いたままそれに眼をやると、それは湿気を吸ってか、ふやけて汚れたあのチョコのベカ札だった。

千太郎は片手をのばしてそれを拾い、そっと鉢巻の間にはさんだ。

善助が水ガンガンを抱えて転げるように走って来た。それを受けて房吉の口へ持ってゆくと、のど仏が大きく動いて、うまそうにゴクッと鳴った。

千太郎の眼から堰をきったように熱いものが、後から後からと溢れてきた。

 

 

「大変じゃったよ。すぐ大勢かけつけてくれてねえ。それから台車の上に担い篭のゴサをはかして、それを敷いてよ、俺と善助が付き添うて上がったが、報せをきいて坑口は人の山たい。眼を傷めちゃいかんというて、黒い布で目隠しさせたが、本人はもう眼もろくに見えんようじゃった。警察からも5,6人来とったが、何せひどい衰弱のしかたじゃろ。そいですぐ病院へ担ぎこんで手当てをしたが可愛そうに房吉も4,5日して死んだよ」

「ベカ札はどうしたの」

「うん、仕掛けの絹針が紙を破ってはみ出しとったが、赤錆が一ぱいついていて、もうくるくる廻らないたわい。またすぐこの札は警察に持って行かれたがね。今でも菊のチョコをみるたびに、ふっと房吉を抱いたときのことをおもいだすよ」

隠居は

ベカ札一枚によって、あたら若い生命を捨てた民造と房吉の上に憶いを馳せていたのだろう。永い付き合いの間、ついぞこれまで只の一度も見かけたことのないさびしい表情を、私はこの老いた藤島千太郎の面に見た。

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