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第26話
坊主の彫跡
「どうじゃい、千太、都がいいか雪隠(せっちん)がいいか」
逃げ廻っていた飛車の頭に桂馬をうって息の根をとめると、平三郎棟梁が得意そうに言った。
「親方、どうせこいつは、勝負になりませんばい」
「ばかこけ。さっきは俺がひどい目にあわされたけん、今度は雪隠にゆくまでやめんぞ」
「もういいよ、こいつは俺が負けとるもん」
「うんにゃ、もっと指せ。途中で投げるとは卑怯じゃい」
飛車の討死にすっかり戦意をなくした千太郎はどうして王様を逃げたものか、望みのない盤面をもう一度見直して溜息をついた。
「ごめん下さい。ごめんなさい」
飯場の土間で来客の声がする。生き返ったように千太郎は立ち上がって、間の襖を開けた。
鳥打帽にくたびれた袷の尻をからあげ、商店名のついた小さな前だれをした40年輩の男である。横に紐のついたギリギリあめの箱を置いている。
ギリギリあめというのは、大正の中期、炭坑の子供達に大いに受けたあめである。ゴマの入った堅いあめをかんなで削り棒に巻きつかせる。客を呼ぶために、竹筒の端をさいて木製の歯車をつけた柄をにぎってふり廻すと鳴るので、子供達はギリギリあめと言った。
千太が顔を出すと、
「望月さんは、おりますでしょうか」
ギリギリあめの親爺はていねいに鳥打帽をとって頭を下げた。
「へい、おりますが」
千太郎は立ったまま次の言葉を待っていると、奥から出てきた平三郎棟梁が、男を見てびっくりするような声を上げた。
「ありゃ、有馬のだんな。こりゃめずらしい。叉、何ごとですな。よう寄ってくれました。さあそこに立っとらんと、一寸上んなはれ。さあさあ」
「一寸所用でこちらへ来たもんじゃから」
「まあ、話はあとで、さあ、どうぞどうぞ」
棟梁は手をとるようにして、居間へ招じた。飴屋もニコニコしながら、草鞋をぬいだ。
「えらい親爺は、へえこらしとるが、あん奴あ何んじゃろうか」
「あの模様じゃ、昔お世話になった人かも知れんぞ」
「うん、そうかも知れん」
そんなことを善助と話し合っているとき、土間の向こうの仕切戸が開いて、平三郎棟梁の大きな声がした。
「千太ア、一寸来う」
「へーい」
何ごとだろうと思って棟梁の居間に入ると、ギリギリあめが床柱を背に、偉そうに座っているのを見てもう一度驚いた。
「まあ座れ、この方はなあ、有馬さんちゅうて本署の刑事さんや。俺に力をかしてくれるように言われるんじゃが、俺よりお前の方がこの仕事には向いとろうと思うてお前に頼むことにした。俺が若い時分、この方にはずい分お世話になったんで、その恩返しといっちゃあ何だが、俺に代わってお前がご恩を返して貰いてえ」
望月平三郎は、取引の相手の隣のヤマへ、最初素直に引き渡したけつわり坑夫が、平三郎の要求を無視した相手方の納屋頭に、さんざ成敗をうけとことを知って立腹した。
向こうへ渡すとき、坑夫は返すが私の顔を立てて決して成敗を加えてくれるなと、くれぐれも頼んでおいたのである。
怒った平三郎は、自らそっと乗りこんで、このけつわり坑夫を自分のところへ奪いかえした。
その後、平三郎が囲っていると知った隣のヤマからは、取締や人繰が入れ替わり身柄引き取りの駆け合いに来たが、一度約定をたがえて顔に泥をぬられたんじゃ、けつわり坑夫は二度と渡すつもりはないと頑強に拒絶した。
そして、とうとう何度目かの人繰が駆け合いに来ての帰り
「仕方がねえ、こうなりゃドスに物言わせても受け取りにくるぜ」
と捨て台詞を残して帰っていった。いよいよ来るときが来たなと平三郎も度胸を据えた。
人に手伝って貰って、空納屋から畳を30枚も運んで、土間の入り口に15枚づつ左右に重ねた。中へ進入してくるものは、いやでも二尺巾の畳の間を通り抜けねばならないようにして、平三郎はその奥に剥がした畳を1枚敷いて座った。
巻き添えをおそれて、身内のものはほとんどよそへ退避させ、見張りを立てた。そして何日かをすごした或る日、とうとう3人やってきたという注進をうけた。
ドスの目釘をたしかめて、抜き身のまま待っていると、納屋の外側で異様なざわめきがきこえる。平三郎は、中腰になって、畳の陰へ身を引いた。バタバタと荒々しい足音がして表にとまった。
「やい、平三郎、出てうせやがれ。うぬが出んとこっちから叩っこむぞ」
平三郎はだまったまま刀身をうしろへひいた。
「とびこめッ!!」
その声が終わるか終わらぬうちに、畳に身体をぶっつけながら、一人が狭い間を突進してきた。そ奴の上半身が畳の外へ出た瞬間、平三郎のドスは唸りを上げて侵入者の耳から下を斬り下げていた。
「うおうー」
怪獣のような声をだして前につんのめった奴を股越して、次に来る奴の真向から劒尖を突き出した。心窩(みぞおち)を抉られた二番目の男は、これも悲鳴を上げて前へのめった。
三番手はこの悲鳴を恐れたのか、忽(たちまち)踵をかえして逃げ出した。倒れている二番手をふみ越した平三郎は、血刀提げて三番手の後を追った。
逃げるもの、追うもの、ものの50間も行ったところのの納屋はずれに彦山川の土手がある。その土手を這い上がろうとしている奴のうしろから、外道ッと一声ふり下した切尖は、相手の背中を大きくさいた。勾配からすべり落ちて土手下にころがっている奴のとどめを刺そうとしたとき、
「まてッ、望月」
うしろから重い声がした。ふり返ってみると署の有馬刑事である。
「もう勝負はついた。そいつの止めを刺そうと刺すまいと、お前の勝ったことには間違いねえ。あたら追討をかけて自分の罪を重うする必要はねえ。止めろ」
走ったとみえて肩で荒い息をしていた。
「そいつをよこせ。そしてお前は俺と一しょに本署までこい」
有馬刑事は平三郎のドスを取り上げると、あとから駆けつけた連中に、倒れている男をすぐ医者へ運ぶように指示してから、平三郎の顔にとび散っている返り血を拭えと、腰に提げていた手拭をとって言った。有馬刑事の制止のおかげで三番手の男は命をとりとめた。
時代というものは有難いものである。ヤマの顔役、村の有志の奔走もあって、平三郎は正当防衛が認められ、無罪になった。勿論官憲の立場からの有馬刑事の尽力も見逃すことはできなかったろう。平三郎は有馬刑事を大いに徳として今日に至っていたのである。
「どんなことをするんです」
有馬刑事が千太郎へむき直った。
「千太郎さんとか仰言ったね。私は本署の有馬です。お聞きのようにこの棟梁とは若い自分からのお附合いでしてね。今年の3月、貴方も知っとるかもしれんが××鉱山で強盗殺人事件がありましてな。熊田七郎というんですがね、そいつが豊前へずらかっているらしい情報をつかんだので、こんな恰好をして探しているんです。ところが4、5日前、ひょいと人相風態がよく似合う男を見たんで、駐在署でいろいろ調べてみたところ、名前は変わっているがこちらへきてまだ日が浅いというので、何とかホシじゃないか調べてみたいと思いましえね」
「何をしらべるんです」
「そいつは左腕に松桐坊主の彫りものがあることだけはわかっているんです。でも、一つ一つあやしいと思うからといって、わざわざ他国から面通しに参考人を招んだり、本人に腕をまくらせてみるわけにもいきません。駐在の辻本君とも話合ったのですが、ごく内密に彫りものを確保するには、浴槽が一番いいと思いましてね」
「で、そいつは誰なんです」
「ホラ、二た月ほど前、軍隊帰りじゃちゅうて大庭組の世話で取締になった神竹たい」
平三郎棟梁が横から口を入れた。
「しかし、神竹さんなら、わしらと一つ風呂じゃござっせんばい、あの人は合宿におって役人風呂に入りよろうもん。わたしら役人風呂には入られまっせんもん」
「これは誰かれに頼めるもんじゃねえ。かといって私や辻本巡査がウロウロしたんでは、相手がもし目当てのホシだった場合、高とびされる恐れもあるし、平三郎棟梁なら外にもれることもねえし、また何かといい知恵もと思うて相談にやってきたんです。これを知っているのは駐在の辻本君とここにいる3人だけですよ」
有馬刑事は困った顔をした。よし風呂場の裏は幸い山になっている。神竹の入浴のところを裏側の藪から覗いたら、左腕の彫りものが見られるかもしれない。そう思えたので千太郎は元気よく言った。
「よござんす。私が風呂の中を覗いてみまっしょ」
「念には及ばんが他人に気取られるなよ」
棟梁の言葉を背に千太郎は部屋を出た。居間に帰ると善助が待ち構えていた。
「なんごと、じゃったか」
「なあに、ギリギリ飴のおっさん、昔々親方の古い友達じゃけな」
宵のうち千太郎は役人風呂の前の居酒屋の親爺を買収して、居酒屋の土間に座りこんだ。むしろを拡げ藁くずの中に埋まって草鞋を編みながら、眼はたえず風呂場の入り口に配っていた。役人風呂の監視に、ここが一番安全である。神竹が来たらこっそり裏口から壁チョロをやらかそうと決心したのである。
草鞋をあみながら、うす暗い電灯の下の前方を注意するのでは、仲々能率は上がらないものである。それでもどうやら半足でき上がったころ、着流しの神竹が手拭を肩にぷらりと風呂へやってきた。
立ち上がって藁くずをはたいた千太郎が麻裏をつっかけてそっと風呂場の裏側へ廻った。裏手は格好の藪である。坑夫風呂もそうであったが、当時は役人風呂(職員浴場)もたいてい混浴だった。
脱衣場のすぐ近くに手頃なふし孔がある。そこからそっと中を覗いた千太郎は眼を皿のようにしてハッと息をつめた。
つきたての餅のような肌をした若い女が千太郎の正面につっ立っているのである。
神竹はその女に遮られて、向こうで着物を脱いでいる。覗いていた千太郎は、神竹の彫りものなどはどうでもよくなった。この美しい観世音菩薩の裸像の方が、松桐坊主よりもよっぽど有難かったのである。
気がとがめて神竹の方をチラリとながめたが、湯船に首までつけている。この女、だれの嬶アかな。顔まで拝んでやろうと思って、眼をふし孔にぐいと押しつけたとき、こちらを向いて身体を拭いていた美しい丸顔の女の視線と一寸触れたような気がして遽てて眼をふし孔からはずした。
こっちの思いすごしだったかもしれないと思ってそっと覗くと、身体を拭いていた若い女が上体を折って洗桶に手をかけるところである。
手拭でもしぼるのかな、と思って目玉を押しつけていると、その真向かいからいきなり
「この色気狂いがアッ!!」
黄色い声と一しょにパッと洗桶の中の湯が、大きな波になって千太郎の眼玉にとびこんできた。
いや、驚いたのなんの、腰を抜かすほど肝をつぶした千太郎は、裏手の山を這い上がって、ほうほうの態で飯場へ帰った。
大納屋では、有馬が待ちあぐんでいたが、千太郎はぬれた衿元を気にしながら今日は失敗したがこうなりゃ男の意地だい、明日はきっと探ってみせるぜとてれながらつぶやいたきり、居間へ戻ってふとんをかぶった。
その晩の繰込は他の人繰に代わって貰った。
今日も千太郎は、夕方から居酒屋の土間を借りて草鞋を作っていた。
どうして覗いたものかと考えながら、ついおこした助平根性を、ほんのり後悔してみたくなった。
昨日の今日、また壁チョロでもあるまいと思いながら、やっと一足作り上げて、鼻緒をしめながらぐいと引っぱって強さを試しているところへ一人の男がブラリと居酒屋ののれんを分けて入ってきた。
「ほほう、千太、またおかしなところに来て草鞋ば作っちょるとやのう」
小頭(現場係)の山瀬である。
「何や、誰かと思うたら山瀬さんかい。また角打な」
「うん、そげえなとこたい。お前、また何ごとか」
「いやあ、ここの土間が広うて草鞋を作るとにはもってこいじゃもんやから、昨日から借り切りたい。ここに座って藁を編みよると、風呂場帰りの別嬪さんやら、役人の奥様方が拝まれて、2、3年は永生きするばい」
「わっはっは」
腰掛に腰をおろして笑いながら山瀬は居酒屋の親爺は焼酎を一合もってこいといった。
「待ちなさい、山瀬さん。今日は俺がここに居合わせたんじゃから酒をおごろう。おやじ、五合ますで酒を頼もう。それから竹輪を2,3本一しょにな」
「はう、そりゃすまんのう。よかよか今度お前のとこの検取りの時やその分考えとこうたい」
「なあに、そんなことせんでも構やせんよ」
「時に千太、望月の棟梁に5円ばかり都合して貰うてくれんか。嬶アにこの前一寸患われた奴が今だに祟って苦しゅていかんわい。なあに善助の伝票に利子共10円で払うようにするからな」
「ああ、そんなら親方に言うて、明日俺が坑口に持ってゆこうたい」
「うん、頼んだぞ」
山瀬小頭は、勝手な注文をふっかけて安心したのだろう。五合枡を取りあげて一息ぐいと飲むと竹輪を頬ばった。
「山瀬さん、あんたまだ風呂に入らんとな」
「風呂か、風呂はどげえでんよか」
「あんたはよかろうばって、俺が入りたいとたい。どうじゃろう、俺を一ぺんつれて役人風呂に入れてくれんやろうか。俺はまだ役人風呂にゃあ入ったことねえもんな」
「入ってどうする。ふろは、どこでも同じことだぜ」
「そう薄情なことを言うもんじゃねえ。折角あんたが居るとじゃから頼んどるのじゃろ」
傾けた五合枡の四つ角から、一滴も水滴が落ちてこないのを確認すると、惜しそうに枡をおいた山瀬はフラフラと立ち上がった。
「ようし、ついてこい」
「一寸待っておくれ、ここを片付けとこう」
千太郎は、折角の機会に神竹が入浴に来ないでは何にもならないと思った。
「あんた、今飲んだばっかりに、もう風呂に入ってもよかとな」
「何よう、こん外道、たった半升やそこいらのはした酒をくろうて、風呂にも入られん俺と思うちょるか。この鼻くそ」
「まあ、そう言わんと、一寸腰をおろしておくれ」
千太郎は藁束を片付けながら、絶えず表に眼をくばって時を稼いだ。
「山瀬さん、あんたあさってが検取りじゃが、検取り祝いのときは何がええかな」
「そうじゃのう、鶏の水たきにするか。もうちっとすると河豚がでるがなあ」
山瀬の気嫌ががぜんよくなった。
「うん、河豚も白こが入らんとなあ」
「ばかこけ、白こなんかありゃとうしろのくうもんじゃ。やっぱり河豚は肝やな。肝に限る」
「いやあ、俺は肝まで拾いくいしてお陀仏にゃなりとうねえ」
「なにぬかす、お前なんかよう河豚の肝の味を知らんで河豚の話をするのう」
千太郎の藁くずを掃く手がピタリと停まった。今、神竹が風呂へ入って行くところである。
「小頭さん、待たせてすんません。さあつれて行ってくんない」
山瀬が気軽に立って外へ出た。千太郎もうしろからつづいた。
風呂の中は50年輩の女と、今入ったばかりの神竹と二人きりだった。山瀬と竝んで胸にまいた晒布を解いていると、神竹が湯槽の中からじろりと千太郎を見た。射るようなまなざしを、やわらかい微笑で受け止めた千太郎は、こくりと挨拶をした。
ここの浴槽は、さすがに役人風呂で、湯槽の中で石けんを使っているものはないと見えて、石けんの泡もギラギラ光る油も、湯の表面にはういていなかった。
「チリン、チリンとやってくるはあ、自転車のりの時間借りーっと」
風呂のふちを枕にした一杯気嫌の山瀬が、気持ちよさそうに唄いだした。こいつ道楽者と見えて、唄は結構三昧にのる調子をもっていた。
湯槽につかって何くわぬ顔で注意していた千太郎、まず大きな失望を感じた。神竹の左の腕のつけ根には、松桐坊主とは似ても似つかぬどぎつい青赤に彩られた紅葉が大きく彫られていたからである。
有馬旦那、カンが狂ったな、と思ったが、フトその青刺が新しいのに気がついた。
ひょいとしたら、このどぎつい彫りものは、あとから重ね彫りしたのじゃなかろうか。だが迂闊に覗こうものなら大漁を逸することにもなりかねまい。
思いきって千太郎は湯槽から上がった。手拭い一ぱい石けんをぬりつけて神竹のうしろへ廻った。
「神竹さん、背中こすらせて下さい」
にっこり笑いながら、やんわり背に手拭をすべらせた。神竹はびっくりしてふりむいたが、千太郎の笑顔につられて、
「うん」
と言ってしまった。
この野郎陰気野郎だなあ、と思いながら、千太郎はだんだんと指先に力を入れた。
間近に見る紅葉は、まだ3月とたたないと見えて、かすかに腫れ跡がのこっている。こいつかもしれない、と思うと、千太郎はむらむらと敵意がわいてくるのをおぼえた。
炭坑太郎をくいものにしゃがる下罪人め、貴様のような奴がいやがるから、炭坑太郎は世の中の人さまよりも1枚下の種類人間に扱われるんだ。ぬすっとに入りゃがって人を殺しゃがるなんて、こんな野郎、ゆるしちゃおけねえ。有馬旦那の手を借りるまでもねえ。俺がとっちめて突きだしてやろう。
腕のつけ根をそっと覗いた。青い紅葉の葉の間に、何か黒い線がひいてある。
千太郎の手がとまった。じっと青刺をみつめている千太郎に気がついて、遽てて神竹がふりむいた。
「藤島、どうした」
「神竹さん、この青刺はまだ新しいねえ。この下にある跡は、坊主の跡じゃねえかい。ほら、ここんところが、山でここに月が昇ってやがらあ」
「なにっ!!」
神竹が立ち上がったと同時に、風呂場の入口の戸がガラリとあいた。
「神竹、署まで来て貰うぞっ!!」
有馬刑事が辻本巡査と一しょにとびこんできた。ハッとそれをふりむいたところを、千太郎が片足をとばして神竹の足をすくった。
コンクリートの上をドスンと大きな鈍い音を立てて、神竹が仰向けに引っくり返るところを、有馬刑事が馬乗りになった。
「いやあ、あとで有馬刑事にうんとこしぼられてねえ。いらぬことに出しゃばって、もし取り逃がしたらどうするつもりじゃったちゅうてねえ。俺の帰りがおそいので、気になって辻本巡査とつれだってそっと風呂場にきて覗いてみると、俺が背中をこすっているところじゃったんだねえ。じっと表に立って、それで俺のせりふをきいとったというんじゃ。今なら警察に協力で、金一封ちゅうとこで、新聞にもでかでかとのるところじゃがねえ。
それから面白いことは山瀬小頭よ。青うなってその晩飯場に来てねえ。俺をそっと呼び出した。もう棟梁から借りる5円はいらんと言うんじゃ。心配するこたあねえと言って棟梁から借りて次の日坑口で渡してやったがねえ」
やわらかい春の陽ざしが、泉水の上に突き出ている連翹(れんぎょう)の花びらを黄金色に光らせている。
緋鯉が水面に浮いて、のどかな波紋をひろげると、すーいと岩陰へもぐっていった。
