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第24話
ご幣ぬすみ
「あんた県道の左側の山に大きな石碑が立っとるじゃろうが」
隠居がフト思い出したように言った。
「はてな、どの辺りじゃろか」
「こりゃ驚いた。あんたともあろう人が、あの石碑に気付かんとは、全くもってうかつ千万ということばい」
「で一体何の石碑かね」
「遭難者追福の碑と書いとるよ。裏に明治40何年とか彫っとったねえ。じゃからあの石碑は昔の坑口の方を向いとろうが」
「遭難者ちゅうと、ガス爆発でもあったのかね」
「その明治40何年かに坑内火災があって60人余り死んだことがあったらしいね。それの石碑じゃよ。あの坑口、清川品吉ちゅう俺の兄弟分がその頃めずらしいコンクリをぬって造り上げたんじゃ。今は坑口の上が通り路になってしもうたけど、あそこはもと坑口の上の山の神様を祀ってあったところでなあ、柵が結ってあって人は入れんじゃったよ。その神棚の前に大きなご幣が立っとったんじゃが、こいつを俺が晩にこっそり引き抜いて坑木場のところに捨てたことがあったよ」
「ほう、叉、いたずらかい」
「何の、いたずらなもんか。人助けたい」
「ちょい待ち」
私はポケットからあわててメモを取り出した。
豊後高田の産、川上伝五郎は望月組の飯場では一番の力自慢であった。その伝五郎が坑内風にあてられて、ものの一週間も高熱にうかされつづけている。
昔の炭坑では病名のはっきりしないものは、みなこの坑内風という炭坑独特の病名で片付けられた。無論医者にも見せたが、一向にらちがあかないし、山伏を呼んで祓わせてみたが、何の効果も現れてこないのである。
日に日に細くなってゆく伝五郎が不憫で、千太郎はここ二、三日仕事を休んで枕元につきっきりで看病した。半分は意識不明のまま呻りつづけていた伝五郎が、その日の夕方、フト正気に返った。枕元にいる千太郎を不思議そうに見つめていたが、水がほしいと嗄(しゃが)れた声で言った。
千太郎が吸呑をとって口へ運んでやると、うまそうに1口吸ってから、始めて伝五郎が重い口を開いて奇妙な話を始めた。
伝五郎はその日左三片の上添風道の高落仕繰にかかっていた。ここは恰度断層際で、去年の今頃第1回目の高落ちをしたとき、伊予から来ていた親娘づれの仕繰夫の娘の方が下敷きになって死んだところである。
傷心の父親は、間もなく娘の骨箱を抱いて四国へ帰っていったが、伝五郎はフトそのことを憶い浮かべて、朝からいやな気分に襲われた。
それでもどうやら天井の空木積だけ組終え一息入れてから、大岩に一本手繰を繰ろうと思って立ち上がったとき、何かのはずみでつまずいて節頭の柄を踏みつけてしまった。
置いてあった位置が悪かったと見えて、真新しい節頭の柄はつけ根からポッキリ折れた。嫌な気持ちだったが、これくらいのことで早退でもあるまいと思い返して、恰度昼食の頃でもあったし、後山の若い者を修理に上げて叉腰を下した。
空腹だったが何だか弁当を開く気にもなれなかったし、一服ほしいと思ったが火番まで出てゆくのが面倒だったので、枠脚にもたれかかって、ついうつらうつらしかけた。
そのうち何とも言えぬ不快感が全身に覆いかぶさってきたかと思うと、妙な硬直が全身に伝わってゆくような気がして身体の自由がきかなくなった。
これが襲われるという奴か、凍りついたような全身は動くこともならず、言い知れぬ不安と焦燥を感じながら高落の下に眼をやったとき、伝五郎は全身の毛穴が一度にふくれ上がってしまうような恐怖におそわれた。
去年ここで死んだ娘が、たった今まで自分のいた空木積の下に立って、じっと自分をみつめていたからである。
柄にもなく「ワアッ」と大声をあげたとたん、正気に返って眼がさめ、同時に金縛りもとけた。
さまざまと見た娘の顔が頭の中をぐるぐると回転して気分が悪くなった。一人でいることの無気味さと、大の男がと笑われるであろう見栄とが、つい誰にもこのことをしゃべらずに、その日はそのまま早昇坑したが、夕方から原因不明の発熱を出した。というのである。
そして終わりに伝五郎はもう一度、その娘に逢えるものなら逢って、娘の願いがどんなことだったのか聞きたかったとつけ加えた。
「善、どうしたもんじゃろう」
千太郎は弟分の善助を呼んでそっと相談した。
「そんなら隣村に祈祷師がおろうが。あれはよう効くちゃうぞ。今からでも行って拝んで貰うたらどうじゃろうか」
千太郎もフト思い出した。2,3年前、この祈祷師のところへ頼みに行って度肝をぬかれたことがある。
「よし、行ってみよう」
二人は麻裏をつっかけてもう夕闇せまる村境の山路を越えて小一里ある隣村の祈祷師の家をたずねた。
すぐに一度見たことのある鶴のようにやせた白ひげの老祈祷師が尊大にかまえて出てきた。
訳を話して、もう夜だから明日いこうと渋る白ひげを、帰りも送りますからと拝み倒して、祈祷の道具一式を風呂敷に包み、いまきた道を白ひげのお伴で飯場に帰りついたのは、もう日もとっぷりと暮れてからだった。
うす暗い8燭(しょく)の電灯の下で白装束に着替えた祈祷師が3尺ほどもある大きなご幣を伝五郎の頭にかざして左右にふりはじめ、何やら訳のわからぬ呪文を唱え始めた。
かしこまっている千太郎と善助の足が、どうやら人のものになり始めたころ、今まで眠っていた伝五郎が、急にひょいと床の上に正座して、白ひげの方へ向き直ったかと思うと、女のような声をあげてさめざめと泣きだした。
見ていた千太郎も善助もびっくりした。息をころして尚もみつめていると、白ひげが泣いている伝五郎におもむろに口を開いた。
「お前はどうしてこの罪とがもない男に取りついたか。まことのことを述ぶるならば、理由によってはお前を浮かばせてもやろうが、うそいつわりを申すにおいては、金剛金縛りの術をもってお前を未来永劫地獄の苦しみから浮かばせぬから左様心得て遠慮なく何なりと願いの筋を申してみよ」
きいていた千太郎にも何かの威圧を感ずるほど白ひげの人相が変わってきた。それに威圧を感じたのか、何も言えずもじもじしている伝五郎へ鶴の白ひげの頭のてっぺんから、雷のような叱咤がとんだ。
「如何なる理由じゃッ!!」
伝五郎は座ったまま、小さくなってぺこりとあたまをさげた。
「はい申します。実は私は去年坑内で硬(ぼた)に埋まって死んだ佐伯みきでございます。早う成仏しとうございますけんど、どうしても外へ出られません。この人に頼んだら出して貰えんやろうか思いまして、まこと、ごめいわくとは存じましたが、お願い申しましたような次第です」
伝五郎の声は細く女の声のようになって千太郎の耳にひびいた。
「何故、出られないんだ」
「はい、坑口までは上がれますけんど、坑口の上の山の神様には大きなご幣が立てかけあります。あれが恐ろしゅうて、どうしても坑口から上がれません」
「しからば、そのご幣を取り除いたならば、お前の執念は、この男の身体から離れて成仏できるか」
「はい、坑口さえ上らして貰うたら、私はそのままお先祖さまのところへ帰れます」
「よろしい、明日とは言わず今夜のうちにそのご幣は取り除いて進ぜよう。お前はすみやかにこの男の身体から執念を除いて坑口の下で待つがよい。わかったか」
「はい」
「よいか、裏の雨戸を半ば開けるからそこから執念を呼び戻すがよい」
千太郎が裏の雨戸を半分開けたとき、伝五郎がウーンと呻って頭を裏の雨戸の方へ向けてふん反り返った。
誰に知られてもまずいので二人でそっと祈祷師を山越に送って、帰りついたのは、もう真夜半の一時を廻っていた。
気になるので伝五郎の枕元へ寄ってみると、宵の口とはうって変わって安らかな寝息である。そっと額に手を当ててみると、気のせいか熱もだいぶ下がったようである。
「やるか」
千太郎が立ち上がった。もう中秋もすぎた夜気はひんやりと二人の衿もとを湿らせた。開口場(繰込場)の裏から、こっそりと廻って坑口の上へ出た。夜目にも山の神の外柵がくっきりと白く浮かんでいる。気がとがめるので柵の前で千太郎は麻裏をぬいで素足になった。素足にさわる草の露は、思った以上につめたい。
善助を柵の外に待たせて、そっと柵を越えご幣に近づいた。千太郎は山の神様の頭をふんでいるようで、足元から急に樽柿のように足がはれ上がってくるようなきがしてならない。
ご幣をつかんでぐいと引いた。ご幣はわけもなく千太郎の手についてきた。
「山の神さん、こらえておくれ。悪さじゃねえ人助けのためじゃけんな」
思わず小さい声が出て、ご幣を小脇に抱えると柵の傍らへ走り寄った。柵の外から善助がそれを受取った。
麻裏をはいて二人は反対側の坑木場の方へそっと小走りに走った。
「よかろう、ここに捨てとこう。夜が明けりゃ人事の役人共がすぐ探すじゃろう。山の神さん。こらえておくら。俺に罰をあてるんじゃねえぜ」
千太郎は坑木の山の間にご幣を立てかけて、こっくりと頭を下げた。
翌る朝、ご幣が坑木場に捨てられてあったことで大騒ぎになり人事係の面々が犯人追求に血眼になっているのを尻眼に一眠りして元気を取り戻した千太郎と善助は仲良く坑内に下がって行った。
伝五郎の病気は、その晩からぬれ紙をはがすように快方に向かって行った。
二人は飯場の棟梁にも、当人の伝五郎にも、ご幣をぬすんだことはしゃべらなかった。そして千太郎も善助も何の罰も当らなかったところを見ると、山の神様も許してくれたのだろうと思って安心した。
第23話
ベカ札
垣根からのぞくと、めずらしく隠居は、麗らかな春の陽ざしを背にうけて、縁側で老眼鏡をかけひとりで花牌(はなふだ)を楽しんでいた。泉水の上のこぼれるような連翹(れんぎょう)の黄一色が、否応なしに眼にしみる。
「何やっとるかね」
紫折戸を開いて庭へ足を入れながら私はきいた。
「うん、牌いという奴よ。ホラこの菖蒲(ねぶか)がオレで赤豆が小金、坊主が大金、松が神様で、黒豆が病気というわけたい。病気がオレから遠のいて、神様と小金がオレのわきにおる。いい占いじゃろうが」
隠居は、自己満足をしながら、花牌を片付け始めた。
「隠居、インチキ賽というのはきいたが、インチキ花牌というのもあるかね」
「大ありよ、こいつにゃあベカ札、屏風札というのがあってね」
「うむ、初耳じゃね、どんなもんかい」
「屏風札という奴は、牌の表に薄い紙を一枚はり、それを半分に折って表に松を画く。半折れにしたその裏と台紙に菊をかく。そして松と菊を一枚で使いわけるのよ」
隠居は札を一枚とって説明しだした。どうして仲々鮮やかな手つきである。
「ベカ札は、札の上と下の端に絹針を仕込んでそれに薄い紙を巻きつける。表に菊を画いて親指で表をなでると、クルクル廻って裏の松が札の中から出てくる仕掛けがしとるんじゃ。わしの若い時分、こいつを作るのも素人はだしの奴がおってのう、そのベカ札のために、こんなことがあるじゃろうか、と今時の人が思うような、大へんな事が起きたことがあるんじゃが・・・・」
「ほい、きた」
私は、縁側に腰を下して、ジャンパーのポケットから逸早くメモを出した。
「待ったッ!!」
突然息づまるような緊張の中の静寂をひきさいて、立会人の民造が呶鳴った。
今宵大庭組の飯場で開帳されているポン引の座の出来事である。7,8人の円座の中には、親札と子札が配られ、それぞれの札の上で竹内宿禰(昔のお札に描かれた人物つまりこの場合お札のこと)が何枚かずつ重ねられていた。みんなの眼がその親札に集中して、今勝負という時である。
「房ッ!!手を引け、その親札を俺に扱わしてみい」
民造はつづけていった。
「何おう、貴様、俺の親にけちをつけるとか。この親札が、どうしたというのか」
親札を手にした房吉は、顔の筋肉をヒクヒク引きつらせながら、まっ青になって呶鳴り返した。
「とぼけるない、さっきから、おかしいと思うとったら、その親札はベカじゃあねえか。もし俺の眼が狂うとったら、立会人を返上して、この場で指をつめてみせらあ。お前も男なら潔ようかぶとを脱げ」
民造は勝ち誇ったように言った。
「ようし、俺の勝負にケチをつけやがったな。望み通り見せてたらあ、断っとくがベカじゃあなかったら、貴様の命はただじゃおかんぞ」
「面白え、俺の眼がさばの眼ん玉のようにくもっとったら、貴様の好きなように料理して貰おう。その前に、みんなの前で、その親札をはっきり出してみい」
親札をにぎっている房吉の手が、ワナワナと震えた。一発触発の殺気が、何かのきっかけで今破れようとする一瞬前の空気である。
「ようし、見たけりゃ見せてやらあ、受取りゃがれ」
房吉はいきなり前においていた子札の郡を一掴みすると、民造の顔をめがけて投げつけた。5,6枚の花札が民造の顔や肩に当ってバラバラと散った。
血相を変えて民造が立ち上がる。同時に房吉の手が素早くふところへ伸びた。居合わせた連中が、アッと声をのんで腰を浮かせたがもう遅かった。
キラッと光ったものが、まっ直ぐ房吉の懐から民造の脇腹へとんで行ったと同時に、ウォーッと一声民造がころげた。
血潮がパッと畳を染めた。止めようとした一人を突きとばした房吉は、そのまま脱兎のような速さで窓をとび越え、裏庭の暗闇の中へ走りこんでいった。全く手の施すすべもない悪夢のような瞬間のできごとである。
一座のものは気がついて、すぐ民造を抱き起こした。民造は血の気の失せた顔からタラタラと脂汗を流して呻っている。思い出したように、2,3人が棍棒を提げて裏から飛び出した。気のきいた者が医者へ走った。
つい、2,3分前まで緊張のうちにも静寂そのものだったポン引の座は、忽ち騒然とした流血の修羅場に変わった。
医者が駆けつけた時は、既に民造は瞳孔が開いたままで、全く手の施しようもない状態だった。
大庭組の若い者達は、手に手に刃物や棍棒を提げて徹宵房吉の行方を追及したが、とうとうそれらしい姿を見かけることができず、夜が明けてから空しく引き上げていった。
本署からも腕ききの刑事が4,5名来て房吉の足どりを血眼になって調べて歩いたが、沓としてその足どりは不明のままだった。
民造の死体は、次の日給水バックの横の斜面に黒白幕をはり廻らされて、その中で解剖された。
日が経つにつれて房吉のうわさも人々の口の端から次第に薄らいでいった。
千太郎はこの頃、時々変な噂を耳にした。
「左七片には狸が出る」
「どうもこの頃、弁当ぬすとが多うて困る。空箱でも残しときゃいいのに、箱かたけ盗ってしまうけん、困ってしまう」
「大畑のうめちゃんは、この十日ほどど三べんも弁当を盗られたけな」
たちの悪い悪戯だろうくらいに思って聞き流していたが、この悪戯はその後もますます続いた。
弁当の被害者は次から次とふえていった。
おかしい、おまけに左七片は望月組の持場であった。千太郎は自分達の組の縄張りのためにも、この犯人を自分の手で取り押さえてやろうと思った。
2,3日して千太郎は善助と二人で昼飯時に、火番まで出向いて一服すませ、叉自分の切羽へ下りて行った。
左七片のところまで下りた時、うめちゃんという若い娘が、蒼い顔をしてふるえながら登ってくるのにバッタリ出逢った。
おやッと思って安全灯を顔の近くまで持ってゆくと、灯に浮き上がったその顔は恐怖にゆがんでいる。千太郎はやにわに丸っこいうめちゃんの肩をつかんだ。
「おい、どうした、うめちゃん」
うめちゃんは、千太郎を下から仰いで怖ろしそうに言った。
「うちが今、弁当たべようと思うて、風道の実木積んとこで弁当を開けよったら、うしろの空き間でゴソゴソ音がするもんやき、びっくりしてふり返ってみたら、幽霊がじゃがんで、じーっとこっちを見とるもん。うちや怖ろしゅうて弁当も何もかもほっといて逃げてきたと」
「よし、わかった。誰にも言うなよ、火番の奥で休んどけ、俺が今その正体を確かめてきてやる。善行こう」
「おう」
千太郎と善助は、かけるようにして、うめちゃんの切羽から上添風道へ登っていった。
うめちゃんが弁当を開けていたというところまで来たとき、二人は、木積から二間程も手前に、まだ腹にご飯粒を一ぱいつけた弁当箱の蓋がころがっているのを発見した。
物の化に対する恐怖と無気味さが、千太郎の一つ一つの毛孔から突きさすように全身を襲ってくる。それを払いのけながら、木積のうしろ側へ廻った千太郎は、そこに異様な風態の人間が俯付せに倒れているのを見てギクリとした。
用心しながら近よってみると、汚れはてた汗臭い単衣のそでから線香の様にやせ細った手が伸びて、まだ箸をつけていない弁当箱をしっかりと握りしめている。そっと倒れた男の頭の方へ忍んで顔を覗きこんだ千太郎は、危うく声が出そうになった。
山嵐のような頭髪の下の眼はくぼみ、髪は生えすき通るような蒼白さの上を、やんわりとほこりが包んではいるが、半眼に開いて喘いでいるこの男こそ、まごう方ない二ヶ月前、あのポン引の座で民造を一突きにして行方をくらましていた房吉だったのである。
千太郎は、思わず汚れた単衣の肩をつかんだ。
「房かッ!!しっかりしろ、俺だ千太郎だ。わかるか。善、急いで水ッ水だッ」
善助が、はねとばされたように駆けおりた。房吉は、眼やにの一ぱいついた眼の奥で、汚水のように濁った瞳を力なくあけて千太郎の顔を仰いだ。
「千太郎さんか、いい人が来てくれた。俺は、俺は今までここにかくれとった。何べん外へ出かかったかもしれんが、大庭の眼がおそろしゅうてよう出んじゃった。もういい、もう出てもいい。俺をどこへでもつれて行ってくれ。俺も一人前陽の目の拝めるところで死にてえ」
房吉は喘ぐようにこれまで言って、もの惓げに瞼をとじた。
「房ッ、しっかりせんか、いいか俺が負ぶってやるけんね。しっかりつかまっとれよ」
無表情の瞼からしづくが一すじ糸をひて頬へ伝わった。千太郎は両脇をかかえて房吉を起こしかけた。はずみに単衣のふところから、ポトリと落ちたものがある。房吉を抱いたままそれに眼をやると、それは湿気を吸ってか、ふやけて汚れたあのチョコのベカ札だった。
千太郎は片手をのばしてそれを拾い、そっと鉢巻の間にはさんだ。
善助が水ガンガンを抱えて転げるように走って来た。それを受けて房吉の口へ持ってゆくと、のど仏が大きく動いて、うまそうにゴクッと鳴った。
千太郎の眼から堰をきったように熱いものが、後から後からと溢れてきた。
「大変じゃったよ。すぐ大勢かけつけてくれてねえ。それから台車の上に担い篭のゴサをはかして、それを敷いてよ、俺と善助が付き添うて上がったが、報せをきいて坑口は人の山たい。眼を傷めちゃいかんというて、黒い布で目隠しさせたが、本人はもう眼もろくに見えんようじゃった。警察からも5,6人来とったが、何せひどい衰弱のしかたじゃろ。そいですぐ病院へ担ぎこんで手当てをしたが可愛そうに房吉も4,5日して死んだよ」
「ベカ札はどうしたの」
「うん、仕掛けの絹針が紙を破ってはみ出しとったが、赤錆が一ぱいついていて、もうくるくる廻らないたわい。またすぐこの札は警察に持って行かれたがね。今でも菊のチョコをみるたびに、ふっと房吉を抱いたときのことをおもいだすよ」
隠居は
ベカ札一枚によって、あたら若い生命を捨てた民造と房吉の上に憶いを馳せていたのだろう。永い付き合いの間、ついぞこれまで只の一度も見かけたことのないさびしい表情を、私はこの老いた藤島千太郎の面に見た。
