[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
第22話
馬
豆腐の腐ったような酸っぱい匂いと、藁のむれた悪臭がいやでも巻立に入ったとたん、胃袋のへんまでしみこんでくる。
「臭えなあ」
千太郎は鉢巻の手拭をはずして鼻に当てながら顔をしかめて馬小屋の前を速足で歩き出した。善助も小走りに千太郎の前を歩いていたが
「全くもってこの臭さにゃあへこたれらあ」
と喘ぐように言った。
巻立の結び劒のすぐ奥に馬小屋があって、馬が七頭飼ってある。この馬達は毎日交代で、四頭ずつ就役させられるのである。自分達への悪口雑言などどこ吹く風の馬達は、鼻を鳴らしながら、コトン、コトン、後足で床を蹴っているものもあれば戸張りをくわえてさかんに引っぱっている奴もいた。
「この餓鬼どもが来てからちゅうもの、函押しは楽になったもんの、毎日毎日馬ん糞を踏まよれて、ろくなこたあねえ」
二人はかってなご託をならべてブツブル言いながら馬小屋の前を通りすぎた。
今でこそ、ベルトコンベアーやコロを見慣れた眼には、別にその恩恵をこと新しく感じないが大正も中期頃までは、坑内外を問わずヤマの最大の運搬力を誇るものはこの馬であったのである。
坑口から選炭機までの道中や、硬(ボタ)捨場などは言わずもがな、引込線をもたないヤマは、省線まで馬に依存せねばならなかったし、坑内では水平坑道や、遠距離の片ばんにはさかんに使用された。
そして一頭の運搬能力というものは、夫々の分担区域によっていくらかの差はあったにしても、
大体において24才函実函7函というところだったようである。
馬は実に勘のいい動物で、一度通った坑道ならば、どの辺で実函が走り、どの辺で重くなるというようなことは、人間よりはるかにくわしく、要所要所では自分勝手に行動し、あえて馬丁の手綱さばきを必要としなかった。それに人間よりもよく眼が見える。暗い安全灯の光でも、馬の活動には一向に差し支えはきたさなかった。
だが、このもの言わぬ憐れな労働者達の中には陽の目を仰ぐことすら忘れはてた坑内で、それはまるで屋根裏の苔かなんぞのように、空しく死んで、素っ気なくふり返ってもみられなかったものも決して少なくなかったのではあるまいか。
坑内爆発に、人々と共に斃(たお)れた例はひとり筑豊炭田だけに限らず、どこの国でも相当数に上がるだろうし、或は疝痛(せんつう)にのたうちながら、手当ての行き届かぬままに、遂に死なねばならなかったものも多々あったにちがいない。
馬は前額部の衝撃にもろい。ふなれな低い坑道をつれて下るとき、何かのはずみで前額部を梁や天井で強打し、そのままイチコロだったという話も私は何度か聞いた。
「痛えッ!!」
突然とび上がるような大声を出して前を歩いていた善助が、車道の中にうずくまってしまった。
「どうした」
千太郎の方がよっぽど驚いて、善助の肩越しに安全灯の灯を近づけながら足元をのぞいてみた。
「釘ふんだ」
背を丸めて左足をかかえた恰好は痛そうである。
「よし、足を揚げてみい」
左の足首を抱えるようにして持ち上げてみると草履の裏に大きな馬蹄がダラリとくっついて上がって来た。
「何や、こりゃ、ひづめじゃねえか、ひづめの釘がささっとるぞ、待っとれ、今取ってやる。」
千太郎は馬蹄をつかんで引き抜いた。七分程の四角な釘が先を赤黒く血で染めて、一つだけ蹄の裏側にブラブラしながらとびだしていた。
「わらじを脱いでみい」
千太郎は道具袋から節頭を出して、草鞋をぬいだ善助の素足の足裏をトントンたたいた。
「もういい、こんちきしょう、太え目にあわせやがった」
よっぽど癪にさわったとみえて、善助は蹄鉄を拾いざま馬小屋の前へやけにたたきつけた。
「大丈夫か善」
「うん、もうなんともねえ」
草鞋の緒をしめながら、善助はそれでもいくらか痛そうにびっこをひき千太郎の前を歩いた。
「無理するこたあねえ、やめて上がってもいいぞ」
「うんにゃ、このくれえ、なんでもねえ」
二人は約200間も歩いて延先(引立)についた。
しばらく腰を下して、それから小一時間孔をくっていたが、どうも善助は足の裏が気になるらしい。時々わらじをぬいでは節頭で足裏を叩いた。
見ている千太郎のほうでも、何だか気づまりがして、いつもの晴れ晴れとした気持ちになれぬ。いきおい二人は無駄口も叩かず、黙々と節頭をふった。こんな日は仕事腰がなくなってしまうものである。
「善、今日はやめとこうや、これで上がろう」
「そうするか」
二人は道具を片付けて上がり仕度を始めた。
途中で馬が空函をひいてくるのに出会った。
「どうしたんか」
馬丁の辰造が、一番先の函の上から声をかけた。
「どうもこうもねえ。お前達あ、馬の蹄ぐらいちゃんと気をつけとけ。おかげでこちとらは蹄の釘をふんで、仕事になりやせんわい」
ドウッ!!手綱がピンとはって馬が停まった・
「そうか、そりゃすまん、よう気をつけとこうたい、こらえとけ」
あっさり片付けた馬方がシーッと一声函の上から手綱をゆるめて馬の背で波打たせると、思い出したように叉馬がゴロン、ゴロン空函をひきだした。
「外道めがあ」
善助はうらめしそうに暗闇に遠ざかる馬方の灯をにらみながらつぶやいた。
馬小屋の前を通りすぎて巻立まででたとき、千太郎達はもう一人の馬丁がフウフウ言いながら青い顔をして、本線の上の方をしきりに気にしているのを見て何ごとだろうと思った。
「どうしたんか」
不意にうしろから千太郎に声をかけられて、馬方はハッとしたらしい。驚いたようにふり返ってから気ぜわしそうに言った。
「どうも、こうも三号の奴が暴れて手に負えやせん。こん奴たあスンパの癖がありやがって、どだい自分の脚をかみやがるもんじゃから、薬をぬってやろうと思うて戸張りをはずしたところが、いきなり暴れ出して、今本線を走って上がりよるとたい」
「へい、今巻函はねえとか」
「それが下の十片に来とるんちゃけど今函待ちしとるんじゃろ」
「ようし、空函を巻かせろ。ちっとばかり善がけがしとるけん、ついでに俺達も空函で上がることにしよう。すぐ棹取をよんでこい。そしてお前は鼻函に乗って馬を追いかけろ。オレも加勢してやる」
馬方の亀は小走りに十片へ下りて行った。すぐロープが動きだして、空函が15函勢いよく上がってきた。棹取と馬方がコース近くに乗っている。
天井に張ってある全図線を引き「止まれ」をして善助が合乗りしたのを見届けてから、千太郎は巻けの合図と共に動きだした巻函にとびのった。やがて20吋の蒸気巻が全速力をあげて馬を追いかけ始めた。
コースはすぐコトコト本線を歩いて上っている馬に追いついた。コース函が勢いよく車道の横を歩いている馬の左側の尻を叩いた。馬はびっくりして急にかけだした。
さすがは馬である。全速力で巻いている本線の巻函をみるみる引き離して、5,60間上がり坂を走った。それでも生きものの悲しさは、すぐ息切れがするとみえて、叉ゆっくりと歩き出す。巻函がすぐ後ろを追う。追いついたとたん尻を叩く。馬は驚いて叉5,60間急スピードで走る。
函の上から見ていた千太郎は、函の縁をたたいて喜んだ。まるで活劇でも見ているようである。
馬は巻函を20間以上も引き離して叉ゆっくり歩き始めたが、すぐ追いついた巻函に、その尻を叩かれては驚いて走った。坑口の白い光が小さく見えてきた。
5,6回も同じことを繰返しているうちに、馬の方がくたびれてしまったらしい。坑口から100間ほど下に左叉卸がある。そこでフウフウいいながら走ってくる炭車を避けた。
馬方が飛び降りて手綱を握った。千太郎も善助も、坑口へ向かってばくそうを続けている巻函の上から、ニヤニヤ笑いながらそれを見ていた。
その日から1週間ほどのち
千太郎と善助は、いつもより早仕舞をして道具を片付けたところで、ちょうど巻立へ出ようとしている実函があるのに気がついた。
「善、あいつに乗って出ろうや」
実函が7函つないで、今馬方が鼻函に鉤をひっかけているところである。鉤は下から上向きにワニの孔にかけられる。曳綱がピンとはるとワニを引っかけ、馳むとひとりではずれるようになっている。心得たもので、馬方が一声シーッと言うとすぐ馬が動きだして曳綱がピンと張る。
千太郎と善助は。後尾の車に乗って一緒に出た。片ばんの中ほどまできたとき、千太郎はフト自分の足の下で、ボキッと木の折れる音を聞いた。オヤッと思っているうちに、自分の乗っている車が急に速くなってくる。急いでとび降りた後から善助もびっくりして降りた。
函止めのために車輪にかませてあった成木のきれはしが、何かのはずみに折れたのである。
「亀、危ねえ、ボードが折れたぞう」
善助が大声で馬方に声をかけた。手綱を持って鼻函に乗っていた馬方もあわててとび降りた。その横を、うしろから次々にガタンガタンと角をつき合わせた7函の実函が、次第に速力を増していって馬の尻に迫っていった。
馬はそんな不事の出来事は一向に知らない。相変わらず自信満々のマイペース通りの行動中である。その尻へ角と角とを重なり合わせるように勢いづいて走り出した実函が、とうとう猛烈な勢いでつき当たった。
馬は驚いて身体をかわそうとしたが、実函につきまくられて、2,3歩よろけ、アッという間に車道のまん中を横倒しに倒れた。
どの胴体の上を鼻函が乗り上がって、2函目も半分角を重ねて乗り上げた。ガタンガタン後続の実函がそれに激しく突き当たってとまった。
「善、奥へ行って人をつれてこい。エブ掻板を忘れるな。亀来い。うしろの実函を一函ずつ押し戻そう」
馬はと見れば、実函二函の下敷きになって、大きな眼をキョロキョロさせてじっとしている。
「足の一本も折っとるかもしれんが、この分なら死ぬこたあねえかもしれんぞ」
「それでも腹の上に函が乗っとるけん、臓わたでも切っとらにゃええが」
「問題はそこたい。切っとらにゃあいいがねえ」
案じ顔の亀を促して、二人で実函を一函ずつ切り離し、3間程も押し戻し始めた。
女も交えた10人ばかりの連中が、奥から小走りに出てきたときは、二人でようやく5函の実函を馬から切り離したばかりだった。問題は馬の胴体に乗り上げている2函の処置である。
「よし、2函とも空にしてしまえ」
千太郎が一人の掻板をひったくって函の縁に足をかけ、中の石炭を掻き出し始めた。2,3人がそれをエブに入れて刎ねた。次々に交代して20分もすると2函共中味を壁際に刎ね終わった。
「そら、引きずり卸せえ」
千太郎の音頭で、まず一函が馬の胴体から離されていった。つづいて2函目の函が音を立てて軌条の上へ引きずり下されたと同時に、馬は、勢いよくむく利と立ち上がった。
みんなホーッと眼を見はった。
「ありゃ、こん奴たあ足も折れとらんぞ」
亀が嬉しそうに、手綱の口を押さえた。
「隠居、馬は時々坑外へ上げてもらったかい」
「うん2週間に一度は上げるように言われとったらしいが、なかなか上げるもんかい。何ヵ月ぶりかで上げるときは、夜上げとったねえ」
隠居は思い出したように冷えた湯のみをとり上げた。さっきから藪うぐいすの声が障子越しにしきりである。
