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第21話
肩入れ談判
壺を使って賽コロ一つをチョン、二つを打ち込み丁半、壺を使わず三つ振るのを投げ丁半という。
いや、これは五十年も昔のヤマの話で、今はそれがどんな形で実行されているかは知らない。
とまれ、猿彦道の神様はよほど気紛れとみえて投げ丁半の賽の目が、それは恰(あたかも)千太郎にだけサービスしてくれているようで、丁とはれば丁、半とはれば半と出て、一円二十銭のもとでが、その百倍の百二十円になったのは昨夜のこと。
そして今日は街の料亭で、首筋をペタペタ塗った女達の嬌声に取り巻かれ、いい気になってお大尽ぶりを発揮している千太郎と善助だった。
まだ、昨夜の圧勝の昂奮が、胸の中で琴線をかきならしているように快い旋律となって、肋骨の下を駆け回る。その旋律をしっかりと抱いて床を背に眼をつむり、雲の上で天女と一しきり戯れているような幻想にひたっているとき、二階の上がり口から顔だけ出した女将の
「千さん、ちょっと」
の声に、ハッと幻想を破られて吾に返った。
「何かい」
障子をあけて顔だけ出した鼻先へ、不安そうな面持ちの女将が手招きした。
「ちょっと降りてよ」
「何や、色男はえらいもてるぢゃねえか」
笑いながら女将のあとから階段を降りてゆくと、飯場の若い衆が青い顔をして帳場の土間につっ立っている。
「なんや、留か、どうした」
留は緊張した面持ちで千太郎を外へ誘った。
「石川のことで、粕屋から三人、取締と人繰が取引に来ちょるばい」
「それで、どうした」
「事務所でうちの取締が、何気なしに勤怠簿を見せたらしい。それに石川の名がのっとるもんぢゃき、動かぬ証拠を握ったちゅうて、石川郷太郎を返して貰おうと、うちでけつまくっちょるよ」
「えらいまた、取締の奴、つまらんへまをやったもんぢゃな、それで、今うちには誰もおらんとか」
「親分は今朝から留守やし、常さんもどこに行ったやらおらんもん。やっと、あんたがここにいるいうこと聞いたんで、早う帰って貰おうと思うてとんできたとたい」
「よし、俺がすぐ帰る。如才もあるめえが、そいつらの眼の届かんところへ郷太郎の奴を隠しとけ、それから栄次郎に、すぐここへ来るように言うてくれ。客人にはちょっと待って貰うてお茶でも出しとけ」
「早う帰ってくんないよ。三人のうち、その取締ちゅう男は、ピストルを持っちょるき、用心せんといかんばい」
「よし、わかった。すぐ栄次郎をここえよこしてくれ」
若い衆はすぐ駆けだした。
しばらく帳場に坐って腕組していた千太郎は、駆けつけた栄次郎と眼が合うと、黙って上がれと顎をしゃくって先に二階へ上がっていった。
さっきの部屋では、まだ善助を囲んで、濁った三味の音が嬌声に交じって、ガンガン障子をふるわせていた。
客のない空室に栄次郎をつれて入った。千太郎は、そこで彼に秘策を授けた。「いいか、お前が石川郷太郎になるんや。待てよ、あいつは先月の十五日に粕谷からけつわって、うちに肩入れして来た奴ぢゃから、覚えとけよ。俺が郷太郎を呼べッと言うから、お前が郷太郎になって出てこい。そして徹頭徹尾石川郷太郎に化けてしまうやぞ。それより他に、勤怠簿まで見られたんぢゃあ、あいつらを追い払う工夫は無え」
栄次郎を一足先に帰して、まだ騒いでいた善助に事の成行きを話し、二人で連れ立って麻裏をつっかけ黄昏かけた表へでた。
千太郎が、大納屋の土間へ入ると、まだ草鞋ばきのまま、上がり口に腰を下していた三人連の顔が一斉にさっと緊張した。
「やあ、お待たせしました。私が人繰の藤島千太郎です。早速ながら用件を承りましょう」
千太郎は、敵意のない笑顔で、三人へ等分に挨拶してからこう切り出した。
三人のうちの、これがピストルを持っているという取締であろう。一番兄分らしい小肥の男が、千太郎の顔をまじまじと瞶めていたが、
「おや、これは藤島さん。私は貴方と一度お逢いしたことがありますが、貴方は覚えていらっしゃるかどうか。おととしでしたかねえ、鯰田の北川組の棟梁の法事のときですよ」
「あっ、そうそう、私もどこかでお逢いした顔だと思うておりましたが、あの節の方でしたか。こう顔見知りのお方に出向いてこられたんぢゃあ私の方も変な意地を張っておる訳にも参りますまい。どうぞご用件から仰言って下さい」
「では、早速申し上げましょう。私のところを不義理して、けつわりやがった石川郷太郎という奴が、お宅のお世話になっとりますので、早速身柄を引き取り度いと思いまして出向いて参りました。貴方がたのお顔も充分立てますから、どうか私達が粕屋くんだりから態々出向いた顔も立てさせてやって下さい」
「そうでしたか。いや解りました。私ぢゃとてちょいちょいよそのヤマヘ取引に参りますんで、ようみなさんのお気持ちはわかるような気が致します。外道され、郷太郎の奴、そんな不義理をしたとは、一向にこちらではぬかしませんもんぢゃから、念は押したんですが、まあ間違いなかろうと肩入れさせてやったんです。それが本当なら太え野郎だ。早速本人を呼んで、身柄はお渡し致しますから、どうぞつれて行って下さい」
千太郎は控えていた善太郎をふり返って言った。
「おい、善、郷太郎の奴をここえしょっ引いてつれてこい」
「よし、きた」
善助は飯場へ向かって大きな声で叫んだ。
「おい、郷太郎はおらんか、居たらここまで出て失せやがれ、チッ、何さでかやしとるとや」
待ちきれずに善助は腰を浮かせて飯場方へ足を運ばせて行った。すぐ栄次郎の郷太郎が、善助に背中をこづかれながら、大納屋の土間に入ってきた。
「兄貴、つれてきたぜ」
善助が神妙らしく報告した。うつむき加減に土間に入った栄次郎は、そこに蹲って片手を地面についた。
「やい、郷太郎、てめえよくも望月組をたばかりやがったな。肩入れするとき何とぬかしゃがった。あれほど念を押したにもかかわらず、どこも不義理はござっせんと俺の前ではっきり棟梁にぬかしたぢゃねえか。どの面下げて俺達を、嘘八百並べてだましやがった。」
大きな声で呶鳴ってから、いきなり横っ面を力いっぱい撲りつけた。
「待ってくんない人繰さん。成程俺あしがねえ下罪人ぢゃけど、すまんばって今迄只の一度でも、どこにも不義理したことねえとが自慢ばい。どこのどいつが俺に不義理をしたとぬかしたか。そんな奴に会うて白黒つけてやりてえ。それから好きなごと、俺の身体を突くなり斬るなりしておくれ」
左手を痛そうに頬へやりながら、栄次郎の郷太郎が、血走った眼を上げてにらんだ。
このところ正に千両役者である。
「なにッ、貴様の言い分はそれだけか、あ、お客人。こいつがこげないとぬかしやがる。私しゃどっちが白うてどっちが黒いか判じかねる。すまんがあんた達がぢかに聞いておくんなさい」
千太郎は三人連へ言った。ピストルを持っているという小肥りの取締が、まず顔色を変えて立ち上がった。
「アッ、藤島さん。こいつは違う。こいつは石川郷太郎ぢゃねえ」
皆まで言わさず、千太郎が鋭く畳こんだ。
「ナニッ、望月組の石川郷太郎を、あんたは郷太郎ぢゃねえと仰言るか。冗談もほどほどにしときなっせ。日本国中、こいつが石川郷太郎ぢゃなかったら、どいつが郷太郎と言いなさる。こいつは先月十五日、遠賀から肩入れして来たばかりぢゃから、うそと思うたらじかにこいつからしらべて貰いましょうか。」
一度顔色を変えて立ち上がった拳銃の男は、また静かに上がり口に腰を下した。
「わかりました、藤島さん。ここは一番わたしが間違っていたようです。何も言わずに引き取りましょう。ほんとうに貴方がたには迷惑をかけてすみませんでした。おい帰ろうか」
控えの二人をかえり見て顎をしゃくった小肥りの男は、千太郎のひとみをたすけるようにニッコリ笑って腰をあげた。
千太郎は炭鉱の入り口まで三人を送ってから、そこで丁寧に頭を下げて懐中から包み銭を出した。
「お客さん、遠いところを態々出向いて下さって、何のおもてなしもできずにお送りして申し訳ありません。どうか些少ですけれど、こいつは私のホンの心尽くしですから、不本意でしょうが、受け取っちゃあ下さりますめえか」
「これは、ご丁寧な。あんたにもいらん苦労をかけました。あんたのお志、だまって有り難く受け取らせて戴きましょう。どうぞ、粕屋までおいでの節は、私共の方にもお立ち寄りになってつかっせ」
三人の男も丁寧に頭を下げた。
「隠居、向こうは隠居の芝居も知ってたろうか」
「言うまでもねえ。こりゃ芝居ぢゃと気がついとらあな。そこが男と男の掛引よ。俺の苦しい芝居を見て、こっちの男を立ててくれたまでよ。もっとも昔は本名だか偽名だか、そいつの名前はどれが本当か知れたもんぢゃ無え。戸籍謄本とか、身分証明書なんてものが、くっついている訳ぢゃなし。じゃから俺が石川郷太郎じゃ、と本人に言われれば仕方がないよ。その時相手の取締がニンマリ笑うたときには、ひやりとしたねえ。わしはあとで栄次郎に役者料として二十円やったが、栄次郎の奴わしにいきなりどやされるとは思ってなかったと言って大笑いしたよ。もっともその時はわしの懐も暖けえぢゃろ。このことで五十円自腹をきったところで、ちっとも痛むことなんかねえもんな」
「いつも、そんなふうに追い返したかい」
「うんにゃ、向こうの出方によっちゃあ、気持ちよう身柄を渡してやったこともあるよ。しかしその時は、念を押したねえ。何も言わずに渡し真ましょう。だが、こいつをつれて帰ってのちに、決してあなたのところでは、指一本当てて下さるなよ。万が一にも指でも当てたと私の耳に入りましたなら、私は命を捨ててもこいつをかばわにゃ、なりませんから、とね。じゃけんど一ぺん自分とこに肩入れさせた奴あ、どんな下罪人であろうと、大ていの場合はかぼうてやったねえ。そら、窮鳥懐に入れば何とか言うぢゃろうが。あれたい」
「本物の石川郷太郎くんは、どうしていたね」
「ふふふ、押入れの中で慓えていたよ。まじめな奴じゃったがねえ。ずっとそれからうちで働いとったぜ」
隠居はおかしそうに笑った。
昼すぎから小降りを始めていた空模様が、とうとう本降りになって、激しい雨足に侘しい散り残りの姿を葉陰にちらつかせていた吉野の花びらが、無惨に泥の中で叩きつけられていた。
第20話
かけ合い
昔の炭鉱では下罪人(渡り坑夫)が肩入れにくるときまってまず「お前先山ができるか」ときいた。「へい、しきります」と答えると「よし向こう脛をはぐってみい」とくる。
向こう脛に飛び石の痕が入墨になっているその濃度によって、こいつ先山の経験がどれくらいで、切り付けの腕もこれだったら、と大体の見当がつけられたからである。
「鶴は何挺持っとるや」
昔のつるはしは穂先だけを代える改良鶴ではなかった。だから先山ともなれば。六・七挺は必ず提げていたものである。これがさし当り肩入れ金の抵当物件というところであろうか。
肩入れ金は働きながら少しずつ会社なり組頭なりに返済する仕組みになっていた。だからこの炭鉱でも肩入れ金を出している限りけつわりは特に心を配った。
そのくせ、よそのヤマにひきぬかれでもしたら肩入れ金の何倍金がかかろうと、炭鉱の面子にかけて、その坑夫を取り戻すことに力瘤(ちからこぶ)を入れた。
だから、こういった連中のかけ合いは、取締や人繰の度胸と舌先三寸にかかる場合が多かった。
大正六年の秋のこと。
昔の納屋子だった大西源助が、遥々遠賀から望月組の棟梁をたよって、大納屋の敷居をまたいだことからこの事件は始まる。
頼ってきた、といえば、甚だ体裁はよいが、実は遠賀のヤマをけつわって来たのである。望月の飯場にたどりついた時の格好が、叉ふるっていた。
源助は、大きな風呂敷に包んだせんべい蒲団を背負い、腰には釜をくくりつけてぶらさげていたし、女房は布袋さまのような大きな臨月腹を抱えて、一人息子を背負った上に、両手は世帯道具を提げて、フラフラしながら飯場の土間に入ってきたものである。
腕もいいし、人物もいいので望月組では渡りに舟とすぐ肩入れさせたが、この源助が、まだ三人ばかり腕の達者な奴がいるから引き抜いたらいい。そしてそいつらも、こちらからの迎えがくるのを待っているといった。
望月組では早速三人の詳細な模様を聞いて、小才のきく豊吉という人繰を、こっそり遠賀へもぐらせた。
そして、五日目の夕方、その豊吉が、引き抜く寸前捉えられて、さんざどやされた揚句、何の収穫もなしに逃げて帰ってきたことを耳にした。
「チッ、だらしのねえ奴、同じ帰ってくるなら、担架で帰ってくりゃ体裁なりといいのに。逃げて帰ったたあ態あねえや」
ぶつぶつ言いながら、それでも気掛かりになって、夕方豊吉の家を覗いてみる気になった。
立ってけの悪い表戸を、こじ開けるようにして中へ入ると、薄暗い部屋では、頭をぐるぐる繃帯(ほうたい)で巻いた豊吉が、せんべい蒲団の中でウンウン呻っていた。
枕元には女房が、心配そうに氷嚢をとりかえている。思ったよりも重傷である。よくこの身体で遠賀から歩いて帰れたもんだと思いながら、そっと豊吉の枕元に坐った。
「豊、痛むか」
繃帯の下を覗きこむようにして千太郎が言った。
「千さんかい、へまをやってすまん。笑うてくれ」
身体を向き直そうとしたが、痛むらしく途中であきらめたように力を抜いた。
「何いうか。誰ぢゃってドジ踏むこたああらあ。お前の運が悪かっただけたい。それよかこうなりゃくよくよせずに、日にち薬に気永う養生することたいねえ」
「おおきに、ぢゃけど考える程俺は口惜しゅうてたまらんわい」
多勢に無勢で袋叩きにされたときのことを思い出しているのであろう。スーッと一筋豊吉の頬を斜めに水糸が尾を引いた。
見ているうちに、千太郎は胸の底から癇癪(かんしゃく)がこみ上げてきた。ようし豊吉のお礼にも俺が行こう。このまんま泣き寝入りぢゃ、腹の虫がおさまらねえ。聞けば豊吉は相手のヤマの事務所に引っ張りこまれて、大勢に叩きのめされたのだという。
自分は一介の望月納屋の人繰でしかない。相手は労務の事務所だとすれば、取締全員が相手ということになる。どう考えても勝てる見込みはねえ。それに非は自分のほうにあるぢゃねえか。叩かれては文句のつけようのない引き抜きに失敗してのことだ。
そして今では向こうでも、こちらの報復に備えて、より一層厳重な態勢を整えていよう。ええ面倒くせえ。生命までは取りはすめえ。好きなたんかを思いきり並べて、向こうの親玉に一発くらわせりゃ、あとは担架にのって帰ってくるまでのことよ。
決心した千太郎は、次の日一番の汽車で、棟梁にも無断で、単身遠賀にのりこんだ。近頃流行の詰襟に乗馬ズボン、草履ばきといういでたちである。
駅を降りると目指す炭鉱はすぐ目についた。自分のヤマより少し大きい構えであることが、千太郎に僅か乍らのコンプレックスを感じさせる。
見張りに行って、正面から豊前のヤマの者ですが、労務の事務所はどこぢゃろうかときり出してみた。案の定、さっと緊張の色が流れて、若い男が案内に立った。
前もっての手配であったのかも知れない。余りにも手際がよすぎる。と、感心しながら案内の若い衆のうしろを200メートルくらい歩かせられると構えもいかめしい事務所についた。
一つ間違ったら、ここが俺の墓場になるのかもしれぬ。くそ度胸を据えた千太郎は、玄関から一歩中へ足を踏み込んでオヤオヤと思った。
何とまあ、俺一人に仰々しい。まるでいつか絵で見たことのある、日露戦争の御前会議みたいぢゃないか。
つっ立ったまま一通り雁首を数えてみた。13匹ようし、これが俺の相手だ。正面の四十五、六の大入道が大取締であろうか。ふんぞり返って煙草を吹かしている態度も、貫禄充分といったところである。どの面を見ても、一くせ二くせありそうな面魂だった。
大取締から二人目にいる三十四、五の神経質らしい狐のように尖った顔をしている男が、机の上で単発の猟銃をいじり回している。その次の男のうしろの壁には、一本の長い奴が立てかけてあるのが柄(つか)だけ見えた。
「へえ、こげなおどしに乗るもんかい」
臍のあたりでせせら笑いながら、末座にいた男にすすめられて、一旦椅子に腰を落としたが、すぐ中腰になった。
「正面のお方は、こちらさんの大取締さんとお見受け致しましてご挨拶申し上げます。手前豊前くんだりから罷(まかり)こしました望月組の人繰、藤島千太郎と申します」
一つ軽いが丁寧に頭を下げるところへ、猟銃の男が弾倉に弾丸をこめながら、尖った声で突っかかってきた。
「おい若いの。見りゃまだ卵の殻がけつの巣あたりにぶら下がっているような青二才の分際で何しにうせた。この前の返礼の挨拶なら、俺が代わって承ろうぢゃねえか」
「騒ぐな唐変木。てめえなんぞの出る幕ぢゃねえ。痩せても枯れても藤島千太郎豊前から来たご使者さまだい。俺が大取締さんに、挨拶が一通りすむまですっこんでろ」
「何よう。こん外道。太平楽ぬかすと、ここからぶっ放すぞ」
「面白え、ご使者さまの口上も聞かずに、うろたえやがってぶっ放すというのかい。それがここの作法かい」
「うぬう、もう承知せん」
やせ狐が猟銃を持って立ち上がった。それには眼もくれず
「大取締さんにお伺いしてえんで。成る程わたしゃあ吹き飛ぶような人繰でござんすばって、同じ釜の飯を喰った野郎が、半死半生の態で呻っているのを見ましては、事の善悪はともかくとして、私の腹の虫がおさまりません。一言大取締さんの前で、好きなごたくを並べて、お返事を伺いたいとうございますんで。どうせ私しゃ旅の一羽烏、あとは煮るなり焼くなり、大取締さんの好きなように料理してつかっせ」
ここまで言ったとき、大取締が吸いかけていた煙草をおいた。
「ご使者、ご苦労。千太郎さんだったかな。一人で来なさったか。望月組とか言うていたが、棟梁は平三郎と言やせんかな」
この場の空気を吹き飛ばしたような、何の屈託もない笑顔を見せて言った。千太郎は、気負いこんだ鼻柱を、この笑顔でギャンと叩かれたような気がして、一度にど性骨がコンニャクのようにグニャグニャになってゆくのを覚えた。
「オヤ、大取締さん。うちの親方をご存知で。これはこれは、知らぬこととて失礼申しました」
千太郎もつい吊られて、ニッコリ笑いながらピョコンと頭を下げた。そしてやせ狐相手に下らぬ啖呵をきったことが、急に恥ずかしくなってきた。
「平三郎にゃ、だいぶごぶさたしとるが元気かな。宮岡がよろしゅうと帰ったら伝えておいて下さらんか。それから、この話次席の須藤君にお願いしよう。須藤君すまんが、君千太郎さんに渡りをつけてくれんか。事務所では何ぢゃろうから、梅屋へでも行ってやるがよい」
「承知しました」
すぐ横の丸顔の男が答えた。この男はやせ狐と違って千太郎にも何だか感じがいい。
「千太郎さん、すまんがそういうことにして下さらんか」
吸いかけの煙草をつまみながら、おだやかに大取締が言った。まるで駄々っ子をあやすような、暖かいまなざしである。
「へい、どうもご雑作をおかけしまして申し訳ござっせん」
「ぢゃあ、案内しようか。藤島さん」
須藤次席が椅子から立って、入口へ歩き出した。この勝負、俺の負けだ。千太郎は黙って立ち上がると、大取締に一礼して、そのうしろにつづいた。やせ狐の銃口が、引き金に手を掛けたまま、忌々しそうに千太郎のうしろ姿を追っていった。
梅屋の二階で床の間を背にして坐らせられた千太郎に、盃をさしながら須藤が静かに口を開いた。
「藤島さん、今度のことについちゃあ、どこから押してもあんた方の理屈が悪うござんすばい。かりに立場を代えて、私のほうが引き抜きに行ったとしたら、あんた達そいつを捕まえたとき、どんなにしますかな。けどまあ、そのことは言わんことにしましょう。私が言いたいのは、あの大勢の中に、たった一人で入ってきたあんたの態度を、うちの親分が気に入ったことです。どうせ、あんたも無事に帰れるたあ思うて来たんぢゃあるまいけど、同僚がやられて、そのまんま、すっこんでおられん気持ちを買うたとですたい。まあ、あんたも何とか好きなごたくも並べたかろうが、ここんところは親分の顔を立てて、私に任せてくださらんか」
「わかりました」
千太郎は、さされた盃を一気に飲み干して、相手に返しながら言った。
「何にも言わずにお任せ致します。」
「うん、よかった、よかった」
須藤は喜びながらポケットから水引のついた包みを二つ出して、千太郎の前においた。
「こちらは、この前のあんさんの膏薬代として30円、これは藤島さん。少ないばって、あんたの車代として納めて下さい」
「有難うございました。どうか大取締さんにもくれぐれもよろしゅうお伝え下さい。余り酔わないうちに帰って友達を喜ばせてやりとうございますけん、我儘言うてすみませんばって、これで失礼させてつかあさい」
「まあ、いいぢゃないですか。ゆっくりしなせ」
「はい、有難うございます。帰りましたら、いづれそのうち、うちの棟梁にも挨拶に参りますごと申し伝えます」
須藤がポンポンと手を叩いた。「はーい」と女将が階段を上がってきて障子を開けた。丸髯に、まっ黒いおはぐろがよく似合う大年増である。
「おかみ、車を呼んで貰おうか。それから藤島さん。これは私から呉ぐれも頼んどきますばって、面倒ぢゃろうが、遠賀川の土堤へ出て、汽車は二つ向こうの駅から乗ってくださらんか。叉うるさい蝿がたかったら、あんたも面倒臭かろう。どんな奴がいて、うちのヤマが恥ををかかされたと思い込まんとも限らねえ」
「承知しました。その通りに致します」
やがて梅屋の表に、シャンシャンと鈴の音がして、人力車が玄関先に停まった。先になって階段を降りてゆく須藤の後ろからつづきながら、千太郎はこの勝負も俺の負けだと思った。そしてこの掛け合いの見事な敗北感が、胸底から快い旋律となって全身に広がってゆくのを覚えた。
「帰ってから棟梁にほめられたろう」
「ほめられるどころか、眼ん玉が飛び出るほどしぼられたよ。いらんことをさでかやす。俺の指図なしに勝手なことをしゃがると叩き出すぞ。それでも向こうの大取締の話をすると、よっぽど嬉しかったとみえて、それから十日程あと、棟梁の道案内させられて、また遠賀に行ったよ。今度は始めからもててねえ。梅屋で飲めよ唄えの大騒ぎたい。その席で、須藤次長が耳もとで、あの時やせ狐が、あんたを撃ち殺してやるというて駅の近くで待っとった囁きやがるんで、思わずひやりとしたよ」
「昔のヤマには、けつわりはつきものらしいが、その原因は何が一番多かったかね。例えば人の嬶アとねんごろになるとか、借金の踏み倒しとか、今の話のように引き抜きにこられるとか」
「いや、やっぱりどこのヤマでも居心地というものがある。住みよいヤマということが一番大切ぢゃったねえ。住み難いヤマとは、坑内条件が悪いとか、金にならぬとか、圧制がひどすぎるとか、そういった条件のどれかに堪えられなんだことになるな。そりゃ今も昔も変わりないよ」
