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朝のうち、雨なのか雪なのか降っていた。気温は0℃だたり-2℃だったり。お昼には 太陽さんが出てきて道路も溶け出した。しかし日陰に行くと表面がつるつる。日が沈むとどこもかしこも滑る滑る。四つんばいにならないと転びそう。仕方なく家の前だけでも氷割りをした。屋根から落ちてくる雪の解けたしずくが凍っているのだ。そのうち孫をトランポリンに連れて行くので、走る機会をなくした。この後、焼肉を食べに行くので今日は走れないかと思いき、5時30分頃から20分弱、家の横の坂道を5往復してきた。約3km。大会まで後64日。
飛行機の予約を済ませた。2ヶ月まえからなので今日申し込んだ。行きは2月16日15時05分発16時50分着、帰りは2月19日12時45分発14時20分着。これで宿と交通の準備終了。
第十話
お産騒ぎ
餌がまずかったか、鶏小屋の環境でも悪かったのか、いっこうレグホンが卵を産まないので、癇癪を起こしてとうとうしめた。
藤島の隠居は水炊きが好きなので、鍋をかけ子供を走らせると、早速子供と一緒にやって来てくれた。
「おやおや、あのレグホンかい。しかしあんたはレグホンに卵を産ませきらんようじゃあ、鶏を飼う資格はないねえ」
「まあ文句は上がってからにして貰おうか」
隠居は敷物の上に腰を下ろして、平皿の中を眺めていたが、
「こう脂が廻ったんじゃあ、産めというほうが無理かもしれんな。お陰でこっちはご馳走にはなれるしな」
と嬉しそうに笑った。
「産むと言やあ、隠居、坑内で産んだ奴にぶつからなかったかね」
「そくらゃきた。あんたと話をしとると、いつ飛び出すかわからんので、びくびくするわい。まあ、その返事は一杯貰うてからのことにしようか」
隠居は笑いながら、自分で湯沸しの中から、燗瓶をつまみ上げた。
今でこそ女子の産前産後六週間というものは、労働基準法によって保護されているが、昔はてんで話しにならなかった。
昭和三年、私が実習生として始めて坑内に下がった頃でも、臨月に近い太鼓腹を抱えた女は、よく見受けたものである。
昔の坑夫生活は、実にみじめだった。臨月が近くなっても、家庭の経済は女房を家で養生させるゆとりさえなかったし、それに家でのんべんだらりとしていては、お産が重いからうんと働かにゃと周囲の人々にも言ったくらいである。だから大抵の女は、ぎりぎり一杯、陣痛の前夜まで働かされた。それでも、子供を生んだ経験のあるものは、おおかた出産の予想がつきもしょうが、初産のものは、周囲が気をつけてやらない限り、それもわかろう筈がない。
ふみさんも、初産の臨月腹を抱えて、毎日妹と二人で坑内へ下がって、仕繰んぽ後山をやっていた。
昔の仕繰は、前の日の昇坑後に坑木場に自分たちが行って、勝手に坑木を選り、自分たちで台車に積み、それをていねいに台車網でくくり、次の日に坑内へ下げたものである。
次の日、ふみさんたちの坑木が巻立てに入ってきたので、ふみさんと妹とはその台車を押しに巻立てへ出た。丁度、千太郎も善助と一緒に巻立てへ台車をとりに出たところである。
「うーむ」
いきなり千太郎の横で、台車に手をかけていたふみさんが、腹を押さえてかがみこんだ。
「どげえしたとな」
千太郎が駆け寄って顔を覗いた。ふみさんは、返事もできず歯を喰いしばって苦しそうである。
「背中を押さえてやろうか」
千太郎はうしろへ廻って、心窩のうしろあたりを両の親指でギューッと押した。
「馬鹿たれ、こりゃ胃が痛えとじゃねえ。ややこができるとだい」
善助が近寄ってきて千太郎に言った。
「何や、ややこができるとか。そりゃいかん。どげすりゃいいとか」
千太郎はびっくりして押す手を引いた。こうなると千太郎は、からきしだらしがない。
「しようがねえ、痛みが停まるまで一寸休んどって痛みが止んだらすぐ連れてあがらにゃ、ここにおったちゃ、どうもこうもできやせん。光ちゃん、成木を五、六本持ってきてくれ」
妹が心配そうに傍らでうろうろしていたが、善助に指図されて、すぐ台車から成木を五、六本引き抜いた。
「よし、そこに並べて敷いた、敷いた」
千太郎も手伝って、成木の床を作った。ふみさんは蹲ったまま呻りつづけている。その耳元で背中を撫でていた善助がそっと言った。
「ふみさん、ちょっとここで横になっとかんな、すぐ痛みは停まるけん」
ふみさんは崩れるように、成木の上に横になった。まだ呻りつづけている。
「善、大丈夫か。こげなとこでややこを産んだんじゃ、どげえもならんぞ。早う連れて上がろうじゃねえか」
「うむ、もうちいっと待ったら痛みも止まるかもしれん。そうしたらすぐ連れて上がろう。兄貴、俺あ奥へ行って道具をしもうてくるけん。お前背中を撫でよってくれ」
「よし、きた」
善助はすぐ奥へ駆け込んだ。そのあとで妹と二人、心細い思いをしてふみさんの背を撫でていた千太郎の耳に、ボスッと何やら水を入れた風船玉でもはじけるような、低い鈍い音が聞こえた気がして、思わずギクリとした。
「どげえ、したとか、ふみさん」
今の音で痛みが和らいだのか、ふみさんが急にオイオイ泣きだした。
「よう、ふみさん。冗談じゃねえ。泣いたっちゃ、わかるもんか。どげえしたとや」
こっちが泣き出したくなるくらい困惑しきっている千太郎は、フトとみさんの股間にしめているケル股の間から、夥しい水が流れ出ているのに気がついた。
「なんや、こりゃ。おしっこが出たとか」
千太郎は、びっくりしてさけんだ。
「違う千太郎さん、ややこができる前に出る水やが」
妹が気ぜわしそうに言って、姉の背を撫でていたが、恥ずかしさに泣いている姉に同情したのであろう、これも一緒になってオイオイ泣きだした。
訳のわからぬ女の泣き声に、ますます面食らった千太郎が、うろうろしている時、やっと奥から善助が、道具袋を二つ抱えて走って出てきた。
「善、大ごとど、ややこができるときに出る水ちゅう奴が今出たぞう」
「そりゃいかん、ぐずぐずしとったら産まれるぞ。ふみさん泣いとるときをやねえ。気をしっかり持って、今から上らにゃいかんとばい。いいかな。俺たちが一緒について上がるけんな。心配せんで、痛みが何ぼかでもおさまったら少しずつ歩こうや。ぐずぐずしとったら、又痛みが来るぞ。光ちゃん、俺たちがついて上がりよるき、あんた兄んちゃんのところまで走って言うてきな」
ふみさんは善助に促されて立ち上がった。ケル股の間から、水がポトポトと落ちた。そのケル股の間から、ニョッキリ赤ん坊の手が出るような気がして、千太郎はビクビク盗み見しながら、善助の持っている道具袋を取った。
昔の排気部は、蒸気管が通って只さえ暑くとても歩いて上れたものではない、三人は本線坑道をぽつりぽつり歩いた。
五分ほど歩いたとき、ふみさんは又陣痛に呻って蹲まった。ハラハラしながら背を撫でている二人の心配をよそに、腹の子は遠慮なしに、ふみさんの腹の中で、娑婆の風を恋しがってしきりに暴れた。
やっといくらか静まって、また上がり始める。今度は五分もせぬうちに苦しみだした。
「善、巻函にのせて上がったらどうか」
千太郎は気が気ではない。第一こんなところでオギャァと言われた日には、一体どうしたらいいのか、その心配の方が先にたつ。
「いいや、こげなとき函で揺さぶられたんじゃあ、産む方の身体にようねえ。ゆっくり上がった方がまだましだい」
「そうかなあ」
千太郎がグイグイと手を引き、善助が後から背を押した。ともすれば、千太郎の引く手は、心 くままについ邪険に力を入れすぎた。ふみさんは苦しそうに、十歩いては止まり、五歩昇っては跼った。その度毎に
「まだ出てくるなよ、まだ出てくるなよ」
善助も祈るように、額に汗を浮かせて、ふみさんの背をしきりに撫でていた。
息せき切って亭主と妹が駆けつけた頃は、漸く坑口の真っ白い明かりが、二百メートルのところへ来たときだった。陣痛はもう、三分ほどに縮んでいた。
「よし、俺は先に上がって取り上げ婆さんを連れてくる。お前たちはぼつぼつあがってこい」
こんなことに苦手の千太郎は、今にも飛び出して来そうなフンギャーの声に脅かされつづけて、一秒でも早くこの雰囲気から遁れたくなり自分から走り使いを買って出た。
「すまんなあ、千太郎さん」
亭主の声をうしろに千太郎は、汗を拭いながら大股にスピードを加えた。
「早う来てつかっせ、坑内で子供ができかかっちょるけん」
「そんなこと言うても坑内まで下がって行かるるもんな」
関取のような身体をした産婆が、手を拭き拭きあきれたような顔をして台所から出てきた。千太郎にはこの四十そこそこの産婆の落ち着いた態度が腹立たしくて仕様がない。
「うんにゃ、もう坑口まで上がっとるとやき、さあわしと一緒に来てつかさい」
「陣痛の間は何分ぐらいあるかね」
「さあ、五分くらいあったろうか。うんにゃおれが離るるときは三分もなかったばい。それから三十分も前水がでたばい」
「何な、破水があったな。そりゃいかん、早うせにゃ」
今度は産婆の方が慌て出した産婆の手提げを千太郎が引ったくって坑口へ走り出した。その後から産婆が巨体をだぶつかせながら、転がるようについてくる。
「どこに、おるとな」
「さあ、開口場(繰込場)じゃろ」
真っ黒に汚れた素肌の上に法被を引っ掛け、褌一つと鉢巻姿の千太郎のすぐうしろから、エプロン姿の肥った産婆が、苦しそうにフウフウ言いながら駆けてゆく。道行く人は、けげんな顔をしてこの奇妙な組み合わせを立ち止まって見送った。
「こっち、こっち」
「一寸街ない、そげえ走ったっちや伴いて行かるもんか」
事務所の前で取締りが二、三人飛び出してきた。
「どげえ、したとや」
「ややこが出来よるとたい」
「だれがや」
取締りも一緒になって駆け出した。開口場の入口で善助が手を振っている。
「あっ、居った居った、産婆さんあそこたい」
千太郎が走りながら振り返った開口場を指差した。産婆も走りながら一つ大きなコックリをした。
「無事産んだかね」
「うん産婆が来てから、すぐ仕切りがきてな丸々とした鎮台さんが産まれたわい。後にも先にもこれがたった一つのお産の話よ」
「切羽や巻立てで産んだものもあったろうね」
「そりゃ、あったかも知れん」
「隠居、さっきケル股と言ったが、あれはキャル股というのじゃないのかね」
「いーや、ケル股ちゅうのは女でも一寸横へずらして小便ができたもんよ、キャル股になると太腿の根っこまで包んでおったから、そんな芸当はできなんだがね。昔の女は、このケル股の上から手拭で腰を廻しとったが、雁瓜でも使うておる奴のうしろから眺めたらお尻が丸見えよ」
「助平根性で起きたかい」
「馬鹿なことを言いなさんな」
笑いながら隠居は、せっせと箸を動かし始めた。
今朝はこの冬一番の寒さ。-13.5度だった。港は温泉のようにけあらしがでていた。
苫小牧に行ってたので、土曜日も日曜日も走ることは出来なかった。
他の人の走っている様子を聞き少し自己嫌悪に落ちそうになるが自分は自分と言い聞かせている。そんなわけで今日は釧路町の体育館で2時間走ってきた。おおよそ20kmと思われる。時間2時間1分、137Hr、1436Kcal。
実はドックで「メタポリッツク」といわれた。胴回り(ウエストではない)85.5cm、血圧137で引っかかったようである。詳しい結果はまだ来ていない。
苫小牧に行って、石狩に1泊した夜、不整脈が出た。三回に一回がおかしいのである。自分で脈を取ってもおかしいし、胸に手を当ててもおかしい。息苦しいのである。意識はしっかりしていて寝てしまえと思った。朝になったら幾分収まっていた。
そんなわけで、今日のランは脈拍計に注意していたがいじょうはなかった。
病院へ行くまでもないだろう。
第九話
神隠し
私たちが幼い頃、一番恐ろしいものは巡査と胆取りだった。しかし巡査の官服にサーベルのいかめしい姿は遠くからでも眺められ、悪いことさえしなかったら縛らないだろうと子供心にも思っていたが、胆取りというものは、どんな姿しているか
想像もつかなかったし、それに子供を連れて山へ行っては身体を切りさいて胆をとり、高い値段でその胆を薬屋へ売るのだと聞かされていたから、それは巡査とは比較にならぬほど恐ろしい存在だった。
気付薬に六神丸という薬があった。あれは胆取りが取った人間の胆でこしらえるから、とてもきつい薬だと、大人たちがまじめに私たちに言ってきかせたりした。
黄昏どき、五厘玉を買いに駄菓子屋へ走ることも、吾々子供にとっては、絶えず胆取りの幻影におびやかされながら敢行しなければならない大きな冒険の一つだったのである。
私は胆取りという大人を見たのは、小学校に入ったばかりの頃だった。
「又ネン棒をしちょる。何ぼ言うてもわからんごとありゃ、焚もんにして燃してしまうど」
私は母の呶声にびっくりして、振り上げていたネン棒をそっとおろした。
「アンちゃんな、どこ行った」
母はつづけて言った。
「先んがたまでおったばって、どこ行ったか知らんばい」
私は小さくなって答えた。
「しいちゃんな今んがた、知らんおいさんと一緒に藤岡の方行きよったばい」
思い出したように、傍らにいた年上の子が母にこう言った。
「どげなおいさんやったか知らんか」
母は顔色を代えてその子にきいた。
「鳥打帽子をかぶったひんがら眼の大きなオイサンやったばい。着物のけつをからげて草履をはいちょったけんど」
「お前早う助おいさんとこ言うてこい。兄んちゃんが藤岡ん方に胆取りに連れてゆかれたちゅうとど」
青くなって慄えていた母を一寸盗み見て、私はネン棒をマアちゃんに預け、助伯父の家へ走って行った。都合よく助伯父は、庭の隅で草履にする藁束を叩いていた。
「助おいさん、アンちゃんが胆取りに、藤岡の方に引っ張ってゆかれたき、早う行ってくんない」
「なによう、いつ頃ぞい」
「たった今」
「おどれ、くそッ」
助伯父は草履をつっかけると、入り口にたっていた私をつき飛ばすような勢いで表へ飛び出し、藤岡へ通ずる納屋裏の近道を、疾風のようにかけて行った。
藤岡を越して、隣村へ通ずる峠の小道で、兄はその胆取りと、これから向かうに行け、行かぬの押し問答を繰り返しているを、駆けつけた助伯父のために難なく連れ戻された。
草相撲の大関をはっていた助伯父は、胆取りの襟首をつかんで、引きずるようにして家まで連れてきた。忽ちできた人垣の中で、いまにも胆取りが刃物を突き出すのではなかろうかと、わたしは慄えながら見ていた。
「いえ、なに、となり村への道がわからんもんですから、坊んにつれて行って貰いましたので、へい、まことにどうも、ご心配をおかけして申し訳ないことでございました」
胆取りは鳥打帽を脱いで、平謝りに謝っていた。頬骨がいやにとび出た平べったい顔の、角刈りにしたひどい眇目の50年輩のの男だった。
「てんごの皮ぬかすな。この日暮れどき、何の用がありゃよその子供を山の中へ連れてゆくんぞい。おんしゃ、胆取りじゃろが」
「とんでもない、私はそんな・・・・」
「ぬかすなッ」
助伯父は一喝すると、私の頭ほどの大きな拳を、いきなり胆取りの鼻柱へ叩きつけた。胆取りはもんどりうって地面へ転び、漸く起き上がった顔は、鼻血で真っ赤になっていた。
手向かいもせず、懐から花紙を出して鼻血を拭いている姿をみて、私は子供心に、この胆取りを可愛そうになあと思った。
この男が胆取りだったかどうかは知らない。しかし、納屋を外れた山路に入ってから、兄をおどして無理につれてゆこうとしたところは、どの道まともな男ではなかったかもしれない。私はこの話を終始面白そうに頷いてきいていた藤島の隠居が、思い出したように行った。
「あんた、神隠しにおうた話知っとんな」
「知らんねえ」
「話してやろうか」私の話よりも、もっと現実離れのした内容であろう。聊か得意な面持ちで、私の待っていた網に、隠居の方から好んで引っかかってきた。
「どげえしたんじゃろうか」
竝んで歩いていた千太郎の方が、先に見咎めて立ち止まった。
「喧嘩でんねえごとあるぞ」
善助も立ち止まってつぶやいた。
「行って見ろうか」
「うん」
濡れ手拭をぶら下げて風呂帰りの二人の眼に止まったのは、納屋の間の人型と、それに囲まれた人々の遽しい気配だった。
足を二,三歩そちらへ運んだときである。
その人垣の中から一人の男が飛び出して、こちらに走ってきた。
「菊じゃねえとか、どげえしたとや」
千太郎に声かけられた男は、走る足をとめて、暗がりの中にすかして見ていたが、それが千太郎と知ると、足早に近寄ってきた。
「千太郎さんな。丁度良かった。今あんたとこに報せに行くとこやった」
「一体、何ごつや」
「松井の鶴が晩方から、おらんごつなったんたい」
「ほう、又どげえしてや。男どんできて逃げたんか」
「そげなこっちゃあるもんか。甚爺の言うこつにゃ、神隠しに遭うたっげなたい。兎に角、ここで話したちゃつまらん。早う顔出しちゃんない」
菊が先になって走り出した。
お鶴さんは、まだ17の蕾だが、負い篭を担がせたら、誰にも負けない一等後向きだった。このお鶴さんが突然夕方から姿を消したと言うのである。
始めは両親も友達の家か近所にでも遊びに行っているくらいに気にもとめなかったが、日が暮れても帰ってこないので急に遽てはじめた。
男と駆け落ちするにしては、まだ浮いた噂一つ耳にしなかったし、第一そんな年でもない。まもなく近所隣を探して廻ったが、どこにもいないとわかって大騒ぎとなった。
「こりゃ鶴さんのじゃ、ねえじゃろか」
近所のおっさんが、赤い鼻緒の杉下駄を、便所の裏から拾ってもってきた。両親はお鶴さんの下駄にとびついて、そのおっさんに聞いた。
「どこにあったなあ」
「雪隠場の裏の、ゴミ捨て場んとこい」
「どげなふうに置いちょったやろか」
「きれいに二つ揃えておいちょったばい」
「どげな、ふうにな」
「北ん方に向いてちゃんと揃うてなあ」
そこに居合わせた隣の甚助爺さんが、聞き耳立てて寄ってきた。
「なんや、北向きに置いとったや」
「うん」
「そりゃいかん、神隠しに遭うたったい。神隠しに遭うたげな、履きもんな決まって北向きに揃えておいちょるもんや。絶対にひっちゃらごっちになっとるもんじゃなか」
「神隠しちな」
みんな青くなって甚助爺さんの顔を見た。菊から聞いた今までのいきさつは、ざっとこうであった。
千太郎の見ている前で、提灯や石油缶、
果ては法華太鼓まで持ち出して集まった連中が、ガヤガヤ騒ぎながら、四、五人ずつの編成を始めた。
「善、俺たちも飯場に帰って仕度して来うや」
「うん」
二人はすぐ出直すからと、その場の人たちに断ってお鶴の家を出た。
納屋を離れて山路に入ると、
「さあ出せ、戻せえ」
先頭にたった千太郎が、提灯を高くふりながら大きな声で呶鳴った。
「さあ出せ、戻せえ」
善助とあとの二人が、石油缶と味噌の空き樽を首から吊るして、ドンガン叩きながらつづけてさけんだ。
あちらの峰にも、こちらの谷にも、狐火のように提灯の灯がフラフラと泳ぎ、その灯の先から闇を突き破って
「さあ出せ、戻せえ」
ガンガン、ドンドンとにぎやかな音が夜っぴて星空にこだました。
「この神隠しの神様ちゅう奴あ、お鶴みたいなまだ熟れきらん別嬪に手を出すなんち、よっぽどの助平だいねぇ」
千太郎たちは、隠し神の悪口を叩きながら、夜露にぬれて、明け方近くまで付近の山々を、うろつき廻ってみたが、何の手がかりつかめなかった。
「どこにもおらん。ひょっとしたら胆取りに連れて行かれたとじゃなかろうか」
「そげなことあるか。胆取りなら態々下駄まで脱がせるこたあねえじゃねえか」
「狐にだまされたんじゃなかろうか」
みんなの不安のうちに一夜は明けた。次の日もその次の日も、夜となく昼となく代わる代わる近所の人たちは、山を分け入って探したが、お鶴ちゃんの行方は皆目知れなかった。
四日目の晩、千太郎と善助は、今日も仲間と連れだって、石油缶叩きに出て、山をお義理に一回りして帰ってきたのは、かれこれ十時を廻っているころだった。
「どうで、こりゃわからんぞ」
ズリ山の裾から納屋へ入りながら、善助があきらめたように呟いた。
「まて、まだ一寸早えぞ。あんまり早う帰ってきても、近所の人に気の毒や。そこの空き納屋で一服するか」
ズリ山のすぐ下には、大庭組の空き納屋が二棟並んでいる。千太郎の意見で、四人はその中のまだ畳が残っている一軒をみつけて入って行った。
「ああーあ、くたびれた」
善助が溜息をついて、上がり口に仰向けに長くなった。誰の顔にも倦怠と疲労の色は覆うべくもない。事実千太郎も心身共にくたくたである。
「じゃけんど親の身にもなってみい。たまらんぞ」
呟きながら腰のトンコツをはずして、きざみをつめ、提灯の火に煙管を持って行ったとき、なにやら床下で、ゴソゴソ動くものの気配を感じた。別段気にもとめなかったが、音は次第に千太郎の足もとへ近寄ってくる。
“野良犬かな”と思いながら一服付け、提灯の灯を何気なく床下突っ込んで見た。
「何やあの音は」
始めて気がついた善助が庭へ下りて、床下を覗きこもうつぃたその鼻先へ、くもの巣を一杯かぶった若い娘が、フウフウ言いながら這い出してきた。
「その三日間、お鶴さんはどうしていたんだろうか」
「何でも毛のもじゃもじゃ生えた八尺くらいの大きな怪物が山を連れ歩いたそうな。一休みしとるとき、すぐ崖の下を、さあ出せ戻せドンガンが通ったので、ここに居ると言おうとしたら、その怪物が眼の前に大きな口を開けて迫ったそうな。そいつが又ばかでかい頭で、二尺ほどの顔に見えたと言うとったぜ」
「やつれていたかね」
「うんにゃ、ちっとも痩せとらん。聞いて見ると、その怪物は逃げようとさえせなんだら至って親切で、食物はふんだんにくれたそうな」
「どうして床下から出て来たかなあ。お鶴さんは、床下にもぐったのは知っていたかね」
「そこんとこのいきさつは、何も知らん按配じゃったのう」
「一つの幻影に引きずられたのかな。所詮精神分裂という奴かもしれんてな」
「さあ、あとはあんたが好きなように考えな」
隠居はもう終わりだと言わんばかりに涼しい顔をして、煙草セットからピースを一本つまみあげて口に咥えた。
つい昨日まで、梨と梅が枝一杯に真っ白く咲いていたと思っていたのに、気がついて見ると、泉水に突き出た杏が、三分うす桃色の花びらをのぞかせている。
彼岸の中日だというのに、障子の隙間から入ってくる風は、まだ皮膚に冷たい。
